わたし自身宗教をやめた身です。
だからといって宗教それ自体を否定するつもりはありませんし、人生で必要なのであれば宗教が与えてくれるものを利用すればいいとは思います。
ただ宗教、特に新興宗教やカルト教団と呼ばれる組織やグループを見ると、やはり「え?なんでそうなった?」みたいなものはよくあります。
今回は宗教の中にいた経験から、独自の視点でカルト教団の問題点をいくつか挙げてみました(内側からの意見なので、実際にカルト教団に入信したことがない方は理解できない部分もあるかもしれません)。
実際は1つ1つの問題点で1記事ずつ書けるものですが、ここでは大まかに要点をしぼって解説します。
- 問題①:退会手続きが整備されていない
- 問題②:家族信仰の要求
- 問題③:不明瞭な会計
- 問題④:「実績」という考え
- 問題⑤:他の宗教に対して排他的
- 問題⑥:万民救済=みんな自分とこの宗教に入信すること
- 問題⑦:国家権力とつながることへの過剰な執着
- 問題⑧:身分を隠しての宗教勧誘
- 問題⑨:マインドコントロール的伝道プロセス
- 問題⑩:脱会者への執着・嫌がらせ
- 問題⑪:教義の正当性を訴える集会・セミナー
- 問題⑫:宗教活動を最優先させること
- 問題⑬:末端教団職員への安月給
- 問題⑭:教祖の神格化
- 最後に
問題①:退会手続きが整備されていない
基本的に宗教をやめるのに公的手続きというものはありません。
自分がやめたと思えばやめたことになるし、教団側にも口頭で「やめた」といえばやめられます。
しかしそれは良いように思えて少し厄介な部分でもあります。
それは「本人がやめたと思っていても教団側はやめたと思っていないまたは思ってくれない」ということがあるからです。
具体的な退会手続きがないというのは、きっぱり決別した証拠書類がないということ。
教団側はやめたことに“しない”で、再度伝道の対象として連絡してくることがあります。
本来日本国憲法第20条にある「信教の自由」は以下のように規定されています。
第1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
信教の自由は「信じる自由」だけではありません。
信仰を「やめる自由」もあるということです。
しかし教団は信者の数が減ることをとても嫌います。
なぜなら新興宗教やカルト教団は信者の数が1つの社会的ステータスだからです。
国からの統計調査では実際の信者の数より多めに回答する宗教だってあります。
そのため退会手続きを整備しようとしません。
教団をやめるというと、
「なんでやめるの?」
「やめたら地獄に落ちるから考え直しなさい」
「〇〇様が悲しむ」
「病気になる」
「罪人になる」
などいろいろなことを言って全力で止めようとします。
やめても頻繁に連絡を取ろうとするケースも珍しくありません。
やめたという証明がないのが1つの大きな要因といえるでしょう。
問題②:家族信仰の要求
多くのカルト教団は個人ではなく家族で信仰させることで信者の数を保とうとします。
家族は最も近い関係社会です。
家族から「宗教をやめないでくれ!」と懇願されて断れる人はそう多くはありません。
バラバラの個人よりは、家庭単位で信仰してもらったほうが教団側としては都合が良いんです。
そのため「信者の子どもは自動的に信者」という二世信者システムを導入しています。
わたし自身が二世信者だったためよくわかるのですが、この二世信者システムにはかなりの問題があります。
本人が望まなくても半ば強制に近いカタチで信仰をさせるからです。
見方を変えると教団の発展のために一人の人間の人生を犠牲にする結果にもつながります。
二世信者に信教の自由などほとんどなく、もしも宗教をやめたければ、家族関係にも傷がつくことを覚悟しなければなりません。
「自分の宗教は自分で選びなさい」と言える親が果たしてどれだけいるのでしょうか?
問題③:不明瞭な会計
かなり前の話ですが、むかし教団の会計をしていたという信者がこんな話をしていました。
「むかしは会計は表向きの会計と裏の会計2種類に分けていたんだ」
「査察に入られたときは表向きの会計を差し出して、本当の会計は見せない」
「それが普通だった時代があった」
考え方が普通じゃない。
わたしが高校生くらいだったかと思いますが、それでもドン引きです。
恐らくこのような不明瞭な会計は減少傾向にあるでしょう。
しかしそうカンタンになくなるかも疑問です。
宗教の中には突然大きな施設を建設する団体もあります。
施設を建設すること自体は構いません。
しかし明らかに貧乏な信者ばかりなのに「どこからそんなお金がでたの?」と思ってしまうのはわたしだけでしょうか?
問題④:「実績」という考え
カルト教団はお金と信者を集めることを「実績」にします。
つまり
- お布施
- 献金
- 伝道人数
などの実績が多い信者は評価され、より良い待遇が与えられます。
待遇といっても、
- 天国に入れる
- 病気が治る
- 教祖に会える
など、その宗教内だけで通用する待遇ですが…。
問題はこの実績という考え方は信仰の在り方を曲解して捉える危険性があることです。
お布施(献金)の強要が肯定される
お布施することが善ならば、
「お布施を強要することも善」
となり得ます。
信者自身が待遇を求めて生活を犠牲にしてまでお布施する姿をわたしは何度も見てきました。
中には消費者金融でお金を借りてまでお布施する信者もいるほどです。
カルト教団には大体その地域・地区をまとめる代表信者がいて、その信者の仕事といえばもっぱらお布施の徴収です(お布施の徴収というと矛盾がありますが…)。
実際我が家にもよく電話や訪問でお布施を求める信者が来ていました。
親が徴収する側になったこともあります。
どう考えてもおかしいのに両親は「お布施できないことが悔しい…」と本気で言っていました。
そのような環境ではお布施の強要も肯定されるのです。
過剰で強引な伝道活動(勧誘)も肯定される
カルト教団は伝道(宗教勧誘)した人数も実績となります。
布教活動に力を入れるため、伝道実績を強調するカルト教団も少なくありません。
特に熱心な信者は、
「救われたい!」
「徳を積みたい!」
「天国に入りたい!」
という気持ちから伝道活動にかなり積極的になります。
すると社会性に欠けた伝道活動になりやすく、刑事事件に発展する危険性も否定できません。
わたしが教団の中にいたころ、
「毎日決まった時間に伝道対象者(※勧誘する相手のこと)の家を訪問するのよ!」
とドヤ顔で言っていた婦人信者がいました。
本人はそれがまるで良いことのように言いますが、反対の立場からすればかなり悪質な嫌がらせです。
このように伝道実績という考えのもとでは強引な伝道活動も肯定されることになります。
カルト教団は実績ばかり気になって、それが社会的評価を著しく下げる要因になっていることに未だに気づいていません。
問題⑤:他の宗教に対して排他的
カルト教団は自分たち以外の宗教や宗派に対して排他的な態度を取ることがあります。
むかし、やたらしつこく宗教勧誘してくる人がいたので「わたしは〇〇(宗教名)の信者なので」と言ったら、
「そんなところすぐにやめなさい!」
「ウチの宗教のほうが救われる」
と、かなり語気を強めて言われたことがあります。
しかし、自分の所属していた宗教も同じようなことを言っていたのを思い出すと、苦笑いするしかありませんでした。
このように他の宗教に対しては憎悪に近い感情をむき出しにするカルト教団・宗教が少なくありません。
実際のその宗教の礼拝・集会では、牧師のような人が他の宗教や宗派をバカにしたり、鼻で笑って見下した態度を取ることがあります。
それだけでも健全な宗教だとは評価されないでしょう。
問題⑥:万民救済=みんな自分とこの宗教に入信すること
新興宗教の多くは万民救済、つまり全世界すべての人が幸福になることを目標に掲げます。
それ自体は悪くないのですが、
という考えはいかがなものかと思います。
問題⑤の「他の宗教に対して排他的」にもつながることですが、このような考えは周囲から孤立する結果につながりかねません。
むかし高校生のころに参加したセミナーで露骨に
「地球上すべての人ががわたしたちの宗教に入ったら世界は平和になる」
と言っていた幹部がいました。
実際はその宗教の中は人間関係がドロドロしていたこともあり、高校生ながら違和感を覚えました。
ほどなくして他の宗教も同じようなことを言っていることに気づいて、その現実に直面したときはかなり苦悩しました。
見方を変えると世界征服です。
それは宗教の仕事でしょうか?
問題⑦:国家権力とつながることへの過剰な執着
カルト教団には大抵、
- 社会部
- 斡旋部
- 渉外部
- 政治部
などと呼ばれる市・県議会議員に働きかける部署があります。
- 議員は選挙のときに票数が欲しい
- 宗教は政治的発言力が欲しい
この2つの利害が一致したときに両者は手を組みます。
実際に宗教はまとまった票数を集めるのにかなり有効な手段です。
しかし、それが健全なのかといえば疑問があります。
宗教が政治に介入することは日本の憲法では禁止されています。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(憲法20条「信教の自由」第1項後半部分)
しかし、実際には間接的に国家権力に介入しようとしている教団が如何に多いことか…。
問題⑥でも触れましたが、教団の目標は「世界の人たちを自分の宗教の信者にすること」です。
それ故に過剰な国家権力への執着が生まれることは考えるに難しくありません。
見方を変えれば世界征服です(二回目)。
それは宗教のあるべき姿でしょうか?
問題⑧:身分を隠しての宗教勧誘
いつでも問題になるのが宗教としての身分を隠して伝道することです。
実際多くの人が最初は宗教だと知らされずに声をかけられます。
- アンケート
- コンサート
- 自己啓発セミナー
ある程度親近感が持ててから宗教であることをカミングアウトすることで、宗教への抵抗を少なくしようとする考えです。
しかしこれは、人をダマしていることになります。
教団側の言い分としてはいろいろあるでしょうが、世間一般では詐欺に近い手法です。
また、このような身分を隠す方法でしか伝道できないということは、裏を返せば宗教の教義に対して自信がないから、やましいことがあるからとも取れます。
教義や教団のやっていることに自信があるのなら隠すこともないはずです(やましいことをしていないのであれば)。
結局は教義を信じていないのは勧誘している本人たちということになります。
問題⑨:マインドコントロール的伝道プロセス
問題⑧とは地続きの話になりますが、徐々に相手の思考を変えていくマインドコントロール的な伝道プロセスは見直す必要があります。
「いやわたしたちはマインドコントロールなどしていない」
「信教の自由を重んじている」
このように主張はしますが、自分たちでマインドコントロールだと自覚していないだけで、実際はマインドコントロールの要素は十分にあります。
自分たちでやっていないと思っていても、やっていることがマインドコントロールなら社会はそれをマインドコントロールと判断します。
事実マインドコントロールなのですから…。
問題⑩:脱会者への執着・嫌がらせ
一度脱会した人への執着がすごい教団は結構あります。
わたしが所属していた宗教はそれほどではありませんでしたが「再伝道者リスト」というものは確かにあって、
- 宗教活動に参加しなくなった人
- 入信までは至らなかった人
- 脱会を表明した人
- やめた二世信者
などが名簿形式になっていました。
時間を置いて再度連絡すると、また教団につながることがあるようで、実際に何人かそういう人には会ったことがあります。
しかし、あまり多くはありませんが、口コミなどを見ると宗教を脱会した人への
- 嫌がらせ
- 仕打ち
- 無視(しかも家族まで…)
がヒドイ教団があるようです。
そういうのを見ると「宗教ってなに?」って思ってしまいますよね。
問題⑪:教義の正当性を訴える集会・セミナー
教団の集会や礼拝に行くとその内容は大体決まっています。
- 如何に自分たちの宗教が正しいか
- どのような実績があるか
- 教義を実践してどんな良いことがあるか
- 教祖が如何に素晴らしいか
- 他宗教や分派の何が悪いか
- 「お布施をするとこんな良いことが実際に起きました」的な話
- 奇跡や導きを感じた話
そしてその内容に対して信者は「素晴らしい」とか「うんうん!」と言って相づちを打ちます。
信者はこのような話を好んで聞きます。
ビジネスなら良いですが宗教でこれをやってしまうと、信者のエゴや優越感が育まれ人間性を損なうことになりかねません。
優越感が育つと無意識に他人を見下す人間になるでしょう。
また信者が好んでこのような話を聞く理由は、心のどこかに「宗教・教義に対しての不信感」があるからです。
その不信感に目を向けることが恐ろしいから、宗教の正当性を求めている節もあるでしょう。
自分を正当化するための理由が必要なのです。
そのような信者が良い信者だと思えないのはわたしだけでしょうか?
宗教の組織を存在させているのは一種の「優越感」と言える。
— カチロー(元宗教二世)しばらくbot (@neutral_kachiro) 2019年1月20日
その宗教に所属していることは、
他人より優れている象徴。
勧誘に来る人の中にはこちらの話を聞かないで(聞いたフリをして)、自分の話をする人がいる。
それは無意識な優越感で相手を見下しているから。
「話を聞くまでもない」のだ。
問題⑫:宗教活動を最優先させること
教団は宗教活動を何よりも最優先させる姿勢を変えるべきです。
たとえ信者であろうと1人の人間。
複数の社会(家族、職場、地域など)の一員です。
もしも他の社会的関係性よりも宗教活動を優先させてしまうと、信者の社会性が失われてしまいます。
- 家庭崩壊
- 職場での孤立
- 友人関係の崩壊
- 地域社会と疎遠になる
- 学校でのいじめ
また二世信者にたまにあることなのですが、勉強や部活よりも宗教活動を優先させた結果、社会に出たときに実力不足から人生に挫折することもあります。
すると社会性を欠いた信者ばかりが集まり、周囲からの目はより厳しくなるでしょう。
よく「マスコミが悪い言い方でわたしたちの教団のことを発信するから」とメディアを批判しますが、社会性を欠いた信者を育てた教団側にも責任の一端はあります。
問題⑬:末端教団職員への安月給
ちょっとコアな話になりますが、宗教といえども法人というカタチを取っているため、教団職員には給料を払わなければなりません。
しかし、その金額の水準は果たして妥当なのか見直す必要があります。
わたし自身教団職員としての経験はありませんが、同年代の教団職員とこんな会話をしたことがあります。
わたし「給料もらってるの?」
職員「もらってるよ。月に1万円くらい」
わたし「え?安くね?!」
職員「まあ施設に住み込みで活動してるからね」
その教団職員は土日返上で活動していて、朝は早朝から動き始め夜も遅くなることが多いバリバリ働く信者でした。
食費や生活費は経費ででるからと言っても、仕事量に対してその金額は安すぎないかと思いました。
積極的に信仰をしてくれている信者の信仰心を悪用しているとしか思えません。
ある時、教団のエライ人から「ウチの法人職員にならない?給料だすよ」とお誘いを受けましたが、丁重にお断りしました。
あなたがわたしの立場でも断るでしょ?
給料をもらっても、そのうちのいくらかはお布施として納めるよう要求する教団もあります。
結局いくら残るんでしょう?
問題⑭:教祖の神格化
教祖や開祖をまるで全能の神かのように神格化することは、
- 信者たちの生き方
- 人生に対する姿勢
- 自分の行動に対する責任
などに悪影響を与えることになります。
信者たちをよく観察してみるとわかるのですが、口ぐせのように
「〇〇さまが導いてくれる」
「祈れば〇〇先生が答えを与えてくれる」
「〇〇大先生が病気を治してくれる」
「〇〇さまがこうおっしゃっていた」
「〇〇さまが執筆した教典にはこのように書かれている」
というようなことを言います。
ここで注目してほしいのが主語が自分以外のものに置かれている点です。
自分以外の優れた教祖を神格化すると、信者は自分の人生の責任までその教祖が持ってくれると勘違いしやすくなります。
「最終的な責任は教祖さまが取ってくれるからわたしには責任がない」と言わんばかりに無責任な行動を起こすこともあり、法律を犯すことも正当化しようとします。
また、自分の人生から逃げる理由に教祖を挙げる信者も少なくありません。
信者の態度にも責任はありますが、教団側が教祖を神格化したことにも大きな要因です。
無責任な信者を増やさないためにも、教祖と言えども人間であることを強調するべきです。
最後に
ここに挙げたものは全体の中で見ればほんの一握りでしょう。
問題なんて言うものは挙げればいくらでもでてくるものです。
しかしほとんどの新興宗教・カルト教団は自分たちの中に問題があることを認識できません。
客観的に自分の宗教を見るということをあまりしないからです。
無自覚な宗教は無自覚な信者を生み出し続けます。
そして、無自覚な信者は社会の中で少しずつ孤立していきかねません。
テクノロジーが発展してくこれからの時代、宗教としての責任は何なのか、もう一度見つめなおす勇気が試されるでしょう。