新興宗教やカルトと呼ばれる宗教の信者たち(特に熱心な信者)は「自分の信仰に誇りを持っている」という言葉をよく使います。
二世信者がその宗教を離れていく現状を見て「二世信者が信仰に誇りを持てるようにしてあげたい」といって、対外活動に力を入れる信者もいます。
この“信仰への誇り”という言葉を聞いてどのような印象を受けますか?
信仰に誇りは必要なのでしょうか?
もし必要なら、どうして必要なのでしょうか?
誇りを持つとどうなるのでしょうか?
今回は信仰への誇りについて考察していきます。(少し複雑な内容になると思います…)
“信仰の誇り”って結局のところなに?
「わたしは◯◯教の信者であることに誇りをもっているんです!」
このようなことを言う信者は非常に多いです。
二世信者の中にも「二世信者として生まれたことに誇りを持っている」という人もいます。
“誇り”という言葉は聞き心地がいいものです。そのせいもあるのでしょう、“信仰への誇り”というとなんとなく良いもののように思えます。
けど、その信仰への誇りが宗教をカルト化しているかも知れないのです。
信仰への誇りには決まった定義がない
例えば信者が「信仰への誇りを持っている」と言った時に、そこにはどのような意味合いがあるか考えてみましょう。
- 教祖や教義への尊敬の念を信仰の誇りという信者もいます。
- 困難な状況にぶつかって、それを乗り越える原動力のように使うこともあります
- 最初の例でいうと、その宗教の信者であることそれ自体が信仰への誇りだと考えている人もいます
このように信者によって意味合いに違いが出てくるが実際です。信仰への誇りという言葉をよく使う割には「それってなに?」と聞くと、「えっと…」と、言葉に詰まる信者が少なくありません。
ザックリ言えば「聞こえが良いから“信仰への誇り”という言葉を使っている」だけで、それ自体に決まった定義はない、曖昧なものです。
所属意識という文脈で使う信仰の誇り
決まった定義はないにしても、信者が会話の中で使う“信仰の誇り”とは、そのほとんどが「宗教に所属していることを名誉に思っている」という定義になります。
誇りという言葉自体に「名誉」というニュアンスが含まれているため、“信仰の誇り”をもっと噛み砕いていくと「◯◯教に所属している(信仰している)ことを名誉に思っている」といったところでしょう。
もしこれ以外の意味で“信仰の誇り”という言葉を使っているなら、恐らく文脈からしてあまり意味が通じません。使い方を間違っていることになります。
社会からの孤立へと導く可能性のある“信仰の誇り”
“信仰の誇り”が宗教へ所属することへの名誉となるなら、それは社会から自分の所属している宗教を切り取って解釈することになります。
当然、これは宗教だけの話ではありません。
例えば「日本人としての誇り」というと、日本人としての名誉を意識した行動や態度を取ることになります。しかし、それは同時に日本以外の外国の存在も認識した上で成り立っているわけです。
ただしこの誇りを強く持ち続けることで、場合によっては社会から孤立する結果に繋がることがあります。
潜在的に育てられる「他人より優れている」という意識
家族や学校を含めたコミュニティへの所属意識は、チームワークや組織力を固めるために必要不可欠なことです。
しかし、
- 名誉に対する強い関心
- そのコミュニティに所属していることへの強い誇り
などが裏目にでることも考える必要があります。
“信仰への誇り”が強化され過ぎると、切り取られた社会に対してどんどん距離を取ることになるからです。そしていずれ社会から切り離され過ぎると“信仰への誇り”が暴走しだします。
社会からの評価を受けない“信仰への誇り”は、
「一般社会の人たちよりも優れている」
「社会は間違っている、自分たちが正しい」
と考えるようになります。一種の優越感です。
もちろん本人は優越感だなんて自覚していませんし、認めることもしません。
しかし内容をみると、社会に対して排他的で、見下すような態度を取っています。気づけば誇りが優越感に様変わりしているんです。
行くところまで行くと、テロ活動や集団詐欺のような社会に対して反発する宗教が生まれることも考えられます。
宗教組織としては“信仰への誇り”を持ってもらった方が都合がいい
信仰への誇りは宗教組織側からすると非常に好都合なものと言えます。
信者がその宗教に留まる理由になるからです。
宗教と言ってもそこはやはり組織なので、人員や人脈、お布施(お金)などがどうして必要になります。もし信者が信仰に誇りを持ってくれれば、自発的に
- 人員・人脈
- お布施(献金)
で組織に貢献してくれます。この自発的というのが重要です。
信仰に誇りを持ってもらうことで、自分の身を犠牲にしてでも宗教に貢献したいと思うようになります。それは組織的な宗教にとっては都合がいいものです。
最後に~信仰に誇りはいらない~
カチロー個人の意見ですが、信仰に誇りは必要ありません。
というより信仰に誇りを持つということ自体に矛盾が生じるのではないかと思います。
信仰というのは神仏に対して抱くものです。しかし“信仰に誇りを持つ”となると、神仏を信じる自分を評価していることになります。
- 信仰→神仏
- 信仰への誇り→信じている自分?
このような図にすると、自分に酔っているのであって神仏はあと回しになりかねません。
またこれもカチロー個人の意見ですが、信仰とは行動と実践そのものだと考えています。信仰とは能動的なものだということです。
しかし“信仰の誇り”という言い方をする人は、文脈的に信仰を固定した名詞としてとらえているのではないかと思います。
名詞化することで信仰を何かしら都合の良い評価基準に考えかねません。そうなると信仰の仕方に良い悪いという善悪が付きまとうのではないでしょうか?
「たくさんお布施をしているからあの人はすごい信仰者だ」
「伝道しているから信仰的だ」
「毎週、集会に参加しているから積極的な信仰をする人だ」
言いたいのは信仰は他人から(または客観的に)評価されるものではないということです。
信仰は行動と実践、名誉でも何でもありません。