ほぼすべてと言っていいほど宗教は分派や幹部の対立という現象が起きます。
仏教も釈迦(シャカ)を開祖として、現代では無数の宗派がありますよね?
キリスト教もイエス・キリスト一人から始まったにも関わらず、カソリックとプロテスタントに分かれ、仏教同様無数の宗派に分かれています。
イスラム教も一神教を掲げているにも関わらず、歴史の中でスンナ派とシーア派に分かれました。イスラム教は今でも多様な実態を持つようになっていて、中にはイスラム国を名乗ってテロ活動を行う組織がでている状態です。
実はこのような宗教の分裂は比較的新しい新興宗教やカルト教団でも起きています。
なぜこのような分派や分裂が起こるのでしょうか?
今回は「宗教が主流派と分派に分かれる理由」について考察してみました。
宗教内には分派もしくは分派予備群が必ず存在する現実
新興宗教の中には必ずと言っていいほど分派が存在します。
またまだ完全には分かれていないけど、幹部同士が対立して「分裂するのも時間の問題」という宗教も少なくありません。
分派を軽蔑する主流派
わたしが生まれた時から30年間所属していた新興宗教にもやはり分派なるものが存在していました。
そしてその他のいわゆる新興宗教を調べてみると、やはり同じように分派があり、内部での分裂が起きているようです。
この“分派”という言い方は蔑視に近い意味が含まれていることが多いようです。
「裏切り者」と言うほうが適切かもしれません。
ただ信者の中には「分派とすら呼ぶべきではない」という意見もありました。
「わたしたちの教義とは別のことをしているのだから分派ですらない」
「わたしたちとは関係のない宗教」
ということにしたいみたいです。
主流派はそれくらい分派を軽蔑する傾向にあります。
主流派から信者を引き抜こうとする分派
分派は分派で主流派から信者を引き抜こうと画策します。
わたしの家にもよく分派が両親やわたしたち家族を自分のところに引き抜こうと勧誘しにくることがありました。
子どもの頃はそういう人たちが来ると、わたしはその場から退場させらていたいのを思い出します。子どもを分派に連れていかれては困るからです(扱いが誘拐犯みたいでちょっとオモシロイ)。
なぜ分派は主流派から信者を勧誘しようとするでしょうか?
答えは単純です。
ゼロから信者を伝道するよりも、ある程度似たような考えや思想を持っている信者の方が仲間に入れやすいからです。
白と黒ハッキリと考えが分かれていれば主流派の信者も勧誘を断れます。
しかし、違っているところもあれば共通する部分もある、いわゆるグレーゾーンの分派に対しては気持ちがなびく信者も少なくないんです。
だから分派は主流派にいるある程度土台のできた信者を勧誘することが多くなります。
主流派としては面白くない話ですね?
幹部が分裂していく主流派
主流派とは名ばかりに、その組織の幹部が対立しあっていることも少なくありません。
人間それぞれ考え方は違うのでムリもありません。しかしこの幹部同士の分裂が激しくなると分派の予備群のような人たちも増えていきます。
宗教の中で幹部になるということは、一般的な会社でエスカレーター式に課長や部長になるのとは少し様子が違います(もちろんそういう側面もありますが)。
幹部になるということはある一定の尊敬を集めているということです。
理由は様々ですが
- 人格的に尊敬ができる
- 実力がある(説得力がある)
- 信仰に熱い
- 長く信仰している(信仰歴がある)
この4つが主な例でしょう。
このように幹部になった人の周りには、その人を尊敬する信者たちが集まりやすくなります。そのため幹部同士が仲違いを起こし、分裂するとその幹部を尊敬している信者がゴッソリ主流派と分派に分かれるわけです。
わたしがいた新興宗教の中でも、小規模なものから大規模なものまでさまざまな対立、派閥があり、その内のいくつかはやはりたくさんの信者を連れていくこともありました(そんなに大きな宗教でもなかったので、これは組織としては痛かったのではないかと思います)。
たとえ最初は似たような教理を共有していたとしても、そこはやはり違う人間、分裂は避けられないのかも知れませんね?
ちなみにここでは詳しく触れませんが、人によっては教理から逸脱した内容で分裂を図ることもありました。それでも多くの信者がそちらに流れることがあります。
何をもってして信仰なのかわからなくなります。
宗教組織はそもそも分裂するようになっている?
ほとんどの宗教が分裂をしていきます。それはある意味で避けられないものです。
理由はさまざまですが、その大きな要因はどの宗教にもある教典の存在です。
- 聖書
- コーラン(クルアーン)
- お経
- その宗教の教祖が書いた書籍など
これらが実は宗教の分裂を起こしてることになります。
キリスト教は同じ聖書を教典に使いながら無数の宗派があります。
イスラム教もコーランを教典にしながらいくつかの派閥があります。
たった1つの教典がどうしてこんなにも分裂や宗派を作っていくのでしょう?
理由①教典に書かれている内容はその人の解釈によって意味合いが変わる
教典に書かれている内容は1つでも、それを解釈する信者はたくさんいます。
信者の数だけ解釈も少しずつ違ってくることは考えるに難しくありません。
政治の世界でも憲法をどう解釈するかでもめてますよね?それとまったく同じです。
人間はそれぞれ違う考えや態度がある多様な存在なので、たとえ教典が1つでも遅かれ早かれ解釈の違いが両者を分けるときがきます。それは自然の法則のようなものです。
しかし、ほとんどの新興宗教はそのような諸行無常を受け入れることができません。だから分派を軽蔑したり、主流派をつぶそうとしたりするんです。
宗教に主観のない解釈はそもそもありません。
そのため自分の都合の良いように教典を解釈する信者もいます。「こっちのほうが多いのでは?」と思うほどです。
自分の人生の責任から逃れるために教典を自分なりに解釈している人が如何に多いことか・・・。
ただそれはある意味で宗教の需要なので完全に否定はできないのですが…
理由②“言葉”は物事を分けるために存在する
教典の解釈もそうですが、さらにもっと核心的なのは言葉・言語というものはそもそも物事を分けて整理するためにあるものです。
その言葉を使って書かれている教典は、そのまま分裂を起こすことが前提で存在していると言っても過言ではありません。
分かりやすく例を挙げましょう。下の写真を見てください。何が見えますか?
一番最初に目に入ったのは恐らく道路の上にある赤い椅子でしょう。その他にはレンガや木、遠くの方に人影も見えますね。
今、たった一つの景色を見ただけでいくつかの名詞がでてきました。
- 道路
- 赤
- 椅子
- レンガ
- 木
- 人影
わたしたちはこのように言葉を使って物事を切り分けて認識しようとします。
ところで写真の中には「luz de calle(イルーズデカイエ)」というものが写っています。さてどこにあるでしょうか?
わかりますか?
もし分かったなら、あなたはluz de calleが何かを知っていることになります。
しかし、もしわからないならあなたはluz de calleを写真の中からキャプチャしたり切り取ったりできないはずです。言葉が無ければ上の写真は何も分けられないただの景色です(景色という名詞すらありません)。
自分の言語世界にないものは例え写真に写っていても認識することはできません。
このように言葉は物事を分けるためにあるわけです。教典はこの物事を分けるために存在している言葉で書かれています。
実は釈迦もイエス・キリストも自身では教典を残していません。
釈迦に至っては「文字に起こすな」とまで言っていたほどです。
しかし、釈迦の頭の良い弟子が説法を記憶して文字に起こしたことで、仏教は世界中に広がることになりました。
ただ“物事を分けるために存在している言葉”を使って書いた結果、仏教には無数の宗派が出てくることになります。
釈迦はこのことを知っていたのかもしれませんね?
最後に
人類は言葉を作り出すことによって膨大な情報を処理する能力を手に入れました。
しかし、言葉の持つ膨大な力ばかり目をとられて、元々は1つとも2つとも数えたり固定したりできないものだということを忘れてしまったのかもしれません。
宗教が分かれていくのはごく自然なことです。
言葉の持つものごとを分ける力は、どんな大きな宗教であってもいずれは分裂に導くことでしょう。