世間が思っている以上に新興宗教の中にいる二世信者の状況は複雑です。
最近のニュースなら女優の清水富美加さんが二世信者だったということで話題になりました。
実際、元々親が新興宗教の信者でその家庭の中で育つとどうなるのか気になりますよね?
わたし自身が二世信者だったのでその内情は、人よりよく知っているほうだと思います。
特に二世信者同士の交流も活発だったこともあり、全体的な傾向もずっと見てきました。
今回はわたしの経験も交えて新興宗教、特にカルト教団の二世信者がどのような
- 幼少期
- 思春期
- 青年期
を経験するのか紹介します。
周囲とは何かが違うと感じる「幼少期」
二世信者あるあるとして「学校の友だちや近所子たちと比べて家は何かが違う」と子供のころ、しかも早い段階から感じます。
例えば、
- 毎日決まった時間に儀式的なことをしている
- 毎週〇曜日には宗教施設で集会がある(礼拝ともいう)
- みんなが聞いている流行りの音楽やアニメを禁止される(クレヨンしんちゃんとかね?)
- 貧乏・貧乏・貧乏(小遣いが少ないもしくはゼロ)
- お金に対してネガティブ(親の都合のような気もする)
- ゲームはダメ(宗教による)
- 夜中にみんなで歌ったり太鼓たたいたり衣装着たり…
- 特殊な祭壇がある(遊びに来た友だちに「あれ何?」って聞かれる恐怖ね?)
- 夏休みは宗教のワークショップに参加させられる
とまあ挙げればキリがありません。
ちなみにわたしが中学生くらいの頃、椎名林檎の「本能」に対して過剰な警戒心をもっていました。PVとか歌詞とかが教義から逸脱してましたから…。
宗教をやめてから椎名林檎を聴くと「うわ、この人スゲェ!」ってなりました。
「あなたは特別だから」という教育
周囲の子たちと比べると、明らかに自分の家庭が貧乏だったり、時間の制約があったりします。
他の子たちに対して「うらやましい」という気持ちがわかないはずがありません。
「なんで他の子は〇〇しているのにウチは違うの?」と親に尋ねると、
- 「あなたは他の子とは違う特別な存在だから」
- 「世の人(※)、一般の人は間違った生き方をしているの」
- 「世界は汚れているけどあなたは清いから違いに敏感なの」
- 「あの子は霊格が低いからお友達になっちゃだめ」
というような回答が返ってきます。
※「世の人」「この世の人」「霊格が低い」という言い方はいろんなカルト教団で使われている言葉です。意味合いとしては「私たちの宗教を信仰していないかわいそうな人たち」といったところでしょうか?見下している表現にもつながるので個人的にかなり嫌いな言葉です。
子どもの頃は親に「あなたは特別だから」と言われてそれを受け入れる二世信者も多いようです。
幼少期はまだ
「家族」
「近所」
「宗教」
など、関係社会の範囲が狭いからでしょう。
教義から外れた行動を取ると叱られる
親が宗教を信仰していると、しつけも宗教の教義を軸にしたものになります。
もし教義から外れた行動や態度を取ると子どもであろうと容赦なく叱る親がいるほどです。
むかし宗教の教典(本)を足で踏んだだけで父親にボコボコに殴られたという二世信者に会ったことがあります。
会った時点でもう20代後半か30代くらいだったと思うのですが、小学生の時の出来事なのにずっと根に持っていました。
親が熱狂的で感情優位な信者だと、子どもよりも宗教活動や礼拝が優先になることがあります。
「親は自分のことより宗教にばかり関心がある」
「他の子たちは怒られないことで怒られる」
「大好きな友だちのことを『この世の子』という」
親が熱狂的な信仰者の二世はこのような寂しい幼少期を過ごしている人が少なくありません。
信仰の分岐点「思春期」
二世信者も中学生・高校生になってくると思春期ということもあり、周囲の人たちと自分が置かれている環境の違いに対して非常に敏感になります。
思春期前後になると
- 積極的に宗教活動に参加する二世
- 親や宗教に反発する二世
がハッキリ分かれてきます。
そのため「小学校のときによく一緒に遊んでいた〇〇くんは最近見なくなった」ということがよくありました。
積極的に宗教活動に参加する二世信者
思春期に入ると宗教活動に積極的に参加する二世信者がいます(わたしの場合は高校生くらい)。
そのような二世信者は親や他の信者からかなり重宝され、
「君はウチの希望だ!」
「すごいね~!」
「さすが〇〇さんの子どもは違う」
などと可愛いがられます。
特に積極的な二世信者は
- 学士部
- 学生部
- 二世信者部
と呼ばれる小学生や中高生たちを束ねる場所の責任を与えられ、積極的に他の二世信者が教団の集会に参加するよう働きかけるよう尽力します。
(部長・副部長と呼ばれることも)
ここで中心的に活動した二世信者はその後も宗教活動に参加しつづけます。
親や宗教に反発する二世信者
7割から8割の二世信者は思春期の時点で一度宗教活動へ参加する頻度が少なくなります。
ほとんどは、
- 学校の部活が忙しい
- 塾が忙しい
- 受験勉強で忙しい
など、学業との両立を理由に宗教活動に参加しなくなります。
しかしそのうち何人かは親や宗教に反発している状態です。
子どもの頃から自分の時間を奪い続けた宗教活動や、そこに参加を強制させた親に対して反抗を示し始めます。
露骨に反抗することもありますが、いろいろな理由をつけて宗教活動へ参加しない「無言の抵抗」という方法を選ぶ二世信者のほうが多かったように思います。
まだ親や家族なしでは生きていけないので、露骨に反抗することは避けたいのでしょう。
人生の分岐点「青年期」
思春期の頃、
- 宗教活動に積極的だった二世信者
- 親や宗教に対して反抗していた二世信者
どちらも学校を卒業したあとの青年期は宗教の信仰を含む人生の分岐点です。
- 進路
- 就職
- 社会生活
などで自分の人生を見つめなおすことになり、そこが今後の信仰にも大きく影響します。
1.信仰を続ける二世信者
思春期の頃、積極的に宗教活動に参加していた二世信者の多くはそのまま信仰を続けます。
中にはその宗教法人の法人職員として活動することもあり、給料をもらって活動する人もいるほどです。
社会で仕事をしながら信仰を続ける二世信者も少なくありません。
この場合、週に一度集会や礼拝に参加する程度の人もいれば、時間を見つけては積極的に伝道活動をする人もいます(中には職場の同僚を連れてくる人も)。
2.社会にでて挫折する二世信者
思春期の頃、宗教活動に積極的だった二世信者が社会にでるといっきに落ち込むことがあります。
宗教の中で活動していたときは、
「○○くん毎回活動に参加してすごいね!」
「あなたは特別ね!」
と、チヤホヤされていました。
それが実際社会に出てみると自分が如何に実力のない人間なのか思い知るんです。
これには熱狂的な信者である親・家族や教団が、二世信者に勉強や部活よりも宗教活動を優先させた背景があります。
このような二世信者はその後大きく分けて2つの道を選ぶようになります。
- 社会で役に立たない宗教に不信感を持ち、やめようとする
- 社会で役に立たない自分に絶望し、宗教の中だけで生きることを選ぶ
どちらが本人にとって良いかはわかりませんが、後者の自分に絶望した人が引きこもりになったのを見たことがあります。
3.社会に出てから信仰に目覚める二世信者
社会に出て自分の人生を見つめなおしたときに、自分の原点を宗教に見出す二世信者も少なくありません。
そのため中学・高校生の頃はほとんど宗教活動に参加していなかったのに、卒業してから宗教の信仰に積極的になることがあります。
ずっといた二世信者からすると「え?あんな子いたんだ?」という感じです。
こういう二世信者は社会や学校で実力を身につけてから信仰することを選んだこともあり、ちゃんとした社会性ある行動を選ぶことが多くなります。
大して実力もないのに口ばかり達者な二世信者よりはだいぶマシな人たちです。
4.自暴自棄になって信仰しているのか反発しているのかわからない二世信者
1番厄介なのが自暴自棄になった二世信者です。
自分の望んでいる人生を手に入れられないことにやきもきしていて、それが親や周囲への攻撃へと変貌しています。
理不尽だと自分でわかっているので、どんどん自分のことが嫌いになっていくという悪循環。
「自分なんて…」が口ぐせです。
このタイプの二世信者は、
- 自分の人生は自分の人生
- 家族は家族
- 宗教は宗教
- 仕事は仕事
というように、関係性を割り切れないことが大きな要因ではないかと思います。
自分の人生の責任を誰に向けたら良いのか分からない状態です(当然自分の人生の責任は自分が持つものなのですが…)。
こういう二世信者に会うと正直気分が悪くなります。
「嫌ならやめればいいのに…」
わたし自身宗教をやめた今だから言えるのかもしれませんね。
最後に~二世信者は必ずしも犠牲者ではない~
二世信者の幼少期から青年期までをざっと紹介しました。
正直これだけでは語れない内容もあります。
例えば、わたしが子どもの頃は両親が熱心な信者だったこともあり、いつも宗教活動に参加するために家を空けていました。
家に着くといつも明かりは点いていなくて、それが寂しくて一人で泣いていたこともあります。
また宗教のセミナーに参加するため半年以上も親が家を空けることも多く、
- お金もない(当然お小遣いなどないですから…)
- 料理も作れない(カップ麺を買うお金もない)
わたしはおなかをギュルギュル空かせながら、他の家族が帰ってくるのを待ったときもありました。
親が家を空けたらそりゃ子どもの腹だって空きます。
これを聞くと多くの人は二世信者はかわいそうで犠牲者として見るでしょう。
しかし自分自身、今こうして自分の意志で人生を選んでみて、結局は自分次第なのだと気づきました。
今なお宗教をやっている両親や家族を恨むこともありません。
もしもこの記事を読んでいるあなたがわたしと同じように二世信者なら、あなたは必ずしも犠牲者ではないことを知ってください。
やるかやらないか、すべては自分で決断して行動するかしないかということです。
そう思いませんか?