人は熱心なカルト信者を見ると
「盲信している」
「周りが見えていない」
と言ってその人たちを説得したり軽蔑したりします。
しかし、わたしは自分の体験と社会心理学の観点から、それはむしろ逆だと考えています。
そう、カルト信者たちは、自分が常識とは違う態度や行動を取っていることを認識しているが故に、熱心に信仰しているということです。
おかしいと自分でも理解しているんです。
「そんなバカな?!」と思う人もいるでしょう。
- 間違っていると「解ったら」、人は過ちを認め正しい道を選びなおすはず
- 正しい情報を「与えれば」、自身の態度や行動を見直すはず
しかし、実際に理論立てて“説得”して、それはうまくいくでしょうか?
恐らくうまくいかなかいはずです。
むしろ説得しようとするあなたを敵とみなすでしょう。
信者は自分の宗教がおかしいとすでに“認識”している
彼らはあなたに言われるより以前から、自分たちがおかしいとは“解っている”し、探せば自分たちの宗教が間違っているという証拠を手に入れられることも“知って”います。
一つわたしの経験を話しましょう。
宗教の中にいた頃、幹部に近い信者たちと過ごす機会がありました。
その人たちはリーダーシップもあり性格も良く、信仰者の鑑のような方でした。
しかし、その人たちが接する機会の多い幹部はむしろその逆だったのです。
- 不倫
- 性風俗通い
- 公金横領
- 飲酒・喫煙
と、おおよそ幹部とは思えない堕落した生活をしていました。
薬物に手を出している噂まであったほどです。
わたし自身、宗教をやめてからそれは“特別珍しくないこと”だということに気付きました。
つい最近のことですが、歴史あるキリスト教の牧師が子供に対して長らく性的虐待をしていたニュースがありました。
「宗教ってなに?」ってなるよねこういうの。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年8月15日
カトリック神父300人が性的虐待 被害者は数千人か(朝日新聞デジタル) - Y!ニュース https://t.co/Ke1StH8W9l
しかし、ここで注目すべきは幹部の過ちではなく、その周囲にいる信者たちがそのような「不正を明確に認識していたこと」です。
- ある信者はその不正に対して怒りを覚え
- 別の信者は哀れみと同情を表現して
- また別の信者は組織改革の必要性を語る
ところがそのうちの誰もが「宗教自体が間違っている」とは言いませんでした。
人によってはそのような不正を犯した幹部をそれでも尊敬し、行くとこまで行くと「幹部が不正を犯したのは自分が至らないせいだ」と自省の念にかられる信者までいます(信じられますか?信じれば救われます!笑)。
そのような信者は説得しても耳を貸しません。
多少の不正くらいなら色々な理由を付けて正当化します。
信者にとっては「そんなことは解っていること」なのですから。
信者にとって一度した決断を変えることは困難
信者にとっては、一度「信じる」と決めたこと、過去の決断を否定することこそが問題なのです。
- 多くの時間
- 多くのお金
- 多くの労力
をその宗教に捧げてきたのに、今さらやめることなどできやしない、と深いところで思っています。家族を犠牲にしてきた人も多いはずです。
信じているから信仰を続けているのではありません。
後に引けなくなったから、引き返せなくなったから信仰を続けているんです。
道を誤り、無意味な人生を生きてきたと思いたくありません。
ここで大きな葛藤が起きていることに気づくでしょう。
- 信仰している宗教の過ちや問題点を認識している
- 自分がした「過去の決断と現在に至るまでの人生」が間違いだと認めたくない
まるで水と油のようなこの自己矛盾をどこで折り合いをつけるかが課題になってきます。
信者はこの時に“驚くべき態度”にでます。
自分がした過去の決断を守ることに固執するため、
宗教の過ちを認識しながら信仰を続ける
という選択をするのです!
もっと言えば、
- テレビ
- 週刊誌
- 周囲の説得
によって宗教の過ちが真実味を増せば増すほど、それは「過去の決断」を揺るがす脅威となり、よりその宗教の深みに入る原因となります。
水と油だったはずが“火に油”になるのです(うまくない?!)。
信者の選択肢「正当化」か「改宗」
おかしいと認識しながら信仰する、この自己矛盾は気持ちの良いものではありません。
時間が経つとその自己矛盾は信者の頭を悩ませます。
- 原因はわからないけど不安
- 気持ちのアップダウンが激しい
- とにかく落ち着かない
そのようなモヤモヤした気持ちを先輩信者に話すと、
「もっと祈れ。そうすれば答えが導き出される。祈りが足らないんだ」
「教義を勉強しろ。聖典を読め。そこに答えがある」
「天から与えられた試練だ」
とかなんとかあいまいな返事が返ってきます。
あなたが現役・元信者なら経験があるでしょう?
しかし、実際には先に言った「おかしいと知りながら信仰している」という自己矛盾が大きな原因というケースが少なくありません。
そして悩みに悩み、苦悩から逃れるために、
- 適当な理由をつけて今の現状を正当化する
- 分派や別の宗教に答えを求めて改宗する
という二つの選択肢を並べて、都合の良いほうを選びます。
1.正当化する
ほとんどの信者が正当化を選ぶでしょう。
そのほうがリスクや負担が少ないからです。
現状をガラリと変える、未知の領域へ飛び出すのは一種の恐怖を伴います。
現状に留まるなら、正当化が一番手軽です。
例えば、他の信者から教えを実践して成功した体験談を聞いて、「ああ、やっぱり正しかったんだ!」と自分に言い聞かせます。
経典を開いて自分の気持ちにヒットするものを探すという信者も多いです。
2.改宗する
どの宗教にも基本的に分派は存在します。
このような自己矛盾で悩む信者が多いので、それだけ需要があるということでしょう。
分派の良いところは、今まで信じていた宗教に内容が近いから気持ちの負担が少なく済むということです。
まったく別の宗教に移る信者もいます。
ただ、
- キリスト教系ならキリスト教系
- 仏教系なら仏教系
というように、大まかな系統を変える信者はそれほど多くはありません。
理由は分派と同じように、ある程度似たような内容のほうが安心するからです。
宗教はやめるのではなく「卒業」するもの
このブログをよく読んでくださっている方なら、わたしが何回も
宗教はやめるのではなく「卒業」するもの
と書いていることをご存知でしょう。
強引にやめること、やめさせることは人間の行動心理にそもそもあっていないからです。
大切なのは、過去を否定することではなく、「新しいプロセスに移行すること」です。
すでに宗教をやめている人もこれからやめようと考えている方も、本当の意味で宗教を卒業しているのかを深く自分と向き合う時間を持つと良いでしょう。
偉そうなことを言って、わたしもまだまだですが…苦笑
このブログが、あなたが自分自身と向き合うきっかけになれば幸いです。