毎日2回か3回宗教儀式があった。忙しいのだ。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2017年5月22日
客観的な意味で善悪はないのかも知れませんね?
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月3日
もちろん同じ社会を共有しているので、適切か不適切かはありますが、全人類共通の善悪はあるものでしょうか。国とか時代によっては、人を殺すことも完全な悪にはならないこともあるのですから。
宗教の中にいた頃は、その教義が絶対的な善だと思っていました。そして、その善に従うことが幸福への道なのだと信じていました。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月3日
けど、あるとき思ったんです。本当の幸福とは「善悪」にいちいち反応せずニュートラルに生きれることではないか、と。
もっと言えば、「幸福になりたい」「不幸を避けたい」という考えからも距離を置けるなら、それは自由ではないでしょうか?
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月3日
自由を定義するなら、
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月3日
「いつでもやめられること。
いつでも始められること。
いつでも自分を変えられること」
ではないかと思っています。
あなたがまだ宗教の中にいるなら(わたしと同じように二世なら)、胸に手をあてて自分自身に聞いてみてください。
「あなたは自由ですか?」
黒ひげ危機一髪の説明書によると、「一番早く黒ひげを出した人が『勝ち』」らしい。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月10日
飛び出したら負けみたいなルールは本来のルールとはちと違うとな。
宗教の教義や唱える原則も、案外その人の捉え方次第でなんとでも変わりそう。都合に合わせて解釈できるしね?
親はわたしが宗教をやめたこと、どうしても受け入れられない様子。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月11日
あれだけ話したのに、自然と無かったことにしようとしている
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月11日
信じているから信仰を続けているんじゃない。それに代わる「選択」を知らないだけ、みたいな人は(自分も含め)結構いた。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月11日
望んで信仰しているのではないけど、それ以外の道を選ぶ勇気を中々持てない的なね?手に入れるより手放す方が難しいと思うのかも。
「正しいから信仰しているのではなく、それに代わる選択を知らないから信仰を続けている」
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月12日
人生は「選べる」ということに気付けば、一つの宗教に依存する理由もなくなると思う。
宗教にゴールを求めた時、目的だと錯覚した時、家庭を犠牲にすること、法を犯すこと、責任を転嫁すること…それらすべてを正当化しだす
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月13日
その気持ちよく分かります。私の親も結構年齢いってて、久しぶりに会ったら身体小さくなってたんですよね…。温泉連れていこうとすると、意味不明な罪悪感に悩まされていてるの見て辛かったの思い出します。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月15日
宗教の中にいた頃を振り返ると、これに近い感じで自分以外の人を哀れに見ていたような気がする。自分では差別だなんて思ってなかったところがまた痛い。完全に他人事として見れない自分が悲しい😢
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月16日
そうそう…。「中」にいた時は幹部・教組とかの伝説や武勇伝がすげ〜と思ってたんだけど、外に出て初めて同じ人間で、失敗もしてることに気付く。無闇に尊敬しないほうが良い。 https://t.co/AsJ76JRiTh
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月16日
宗教故にそのような親になったのではなく、その性格故に宗教がきれいにハマった、か。なるほど! https://t.co/pITB0040rM
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月17日
二世信者がやめる時によくする勘違い。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月17日
「やめるのには強い根性や精神力が必要!」
本当に必要なのは、根性ではなくて「根拠」。
戦略的な「卒業」が大切。https://t.co/Rf9jNqrzx4
信教の自由は家庭内にあるのだろうか?信じる自由は主張するけど、やめる自由についてはダンマリ。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月17日
そんな人が周囲にはたくさんいた。都合の良い時だけ「信教の自由」を持ち出す。
https://t.co/3tm2v6TXjE
選べるものと選べないものを並べてみると、案外自分には自由な選択肢があることに気づける。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月28日
例えば、家族は選べないけど、宗教は選べる。生まれること、死ぬことは選べないけど、どんな人生を生きるかは自分で選べる。
過去と未来は選べないけど、過去に対してどうやって反応するか、未来をどう計画するかは、現在で選べる。過去も未来も、現在より後に来るものだから。今日より先に来る過去も未来もない。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月28日
宗教の中で肯定される差別。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年2月28日
「世の人」「この世の人」「霊格が低い」 https://t.co/53pL3ZfAAg
「宗教をやめた理由は?」と聞かれるけど、最近ではこの質問自体がおかしいんじゃないかなって思う。時間が経ったからかな?
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年3月7日
やめるのに理由はいらない。強いて言えば、「続ける理由」が無かった。
理由を必要としているのは、むしろ宗教を信じている人たち。
ブログタイトルと矛盾が生じる…
逆に「宗教を続ける理由は?」と聞いたら、それっぽい理由を言われる。けど、突き詰めてみると、結構個人的な理由であることがほとんど。人生の責任が怖い。人よりも特別でありたい。まあ、それも一つの人生かも。自分はそれを選ばなかっただけ。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年3月7日
社会に馴染めずに戻る信者は確かに多い。やめるのにはそれなりに準備が必要。 https://t.co/FwkkyEjGkD
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年3月9日
カルトの中に居続けるには理由がある。その大きな一つが「自分は特別である」という感覚。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年3月25日
・人とは違う
・他人より優れた位置にいる
つまり、自分は人生の勝者であるという妄想に病みつきなのだ。他人を哀れだと、見下せる権利を与えられたと錯覚している信者も少なくない。
表の顔:自己犠牲
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年3月27日
裏の顔:自己欺瞞
自分が結婚してないから、結婚と宗教に関する相談にうまく答えられないのが心苦しい…。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年3月27日
「人生に責任を持ちたくない」
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月11日
「自分より大きなものに貢献したい」
この相反する欲求を満たすのが新興宗教。
責任は宗教が取ってくれる(と思っている)
自分より大きな存在に貢献している(と思っている)
需要はなくならない。
自分がいた宗教に「もしも全ての人がうちの宗教で平和な世界を築けたら、病気は存在しなくなる。風邪もひかない」と言っていた幹部がいた。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月12日
やめてから風邪は身体の最適化機能で、健全なものだと知った。こういうこと、よくあるよね?
「信教の自由」は何を信じるか「選べる自由」なのにも関わらず、「信じる自由」と解釈している人が多いことに驚く。この違いもわからないほど、人の読解力が落ちている。「あなたの意思次第で、いつでも宗教をやめられるよ」ってことなんだけどな…。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月21日
両親ゆえの自分でありたいのに、その関係性には常に宗教の存在がある、それは子どものアイデンティティに大きく影響を及ぼします。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月22日
「親と子」という一対一の関係性のはずが、そこには別の何かがいつもいて、自分たちを監視している感覚です。
昔、自分より年下の二世信者の母親が亡くなったので、そのお葬式に行ったことがある。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月22日
そこでその二世信者は「これからもっと教祖様のために尽くします!」と恍惚な表情で演説した。
実の母親より宗教を取ったんだ、と感じた瞬間だった。
それに拍手を送る信者たち同様…。
自分で自分を変える勇気が持てないから宗教を始めた信者が多い。宗教が自分を変えてくれると思ったから。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月24日
けど、自分で自分を変えられると気付いたのなら、もう宗教を信仰する理由はなくなる。
行動心理学。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年4月28日
人はある物事に強い期待を持っていると「真実」の発見や調査を避ける傾向にある。
宗教に傾倒している人はこの類に入りやすく、どんなに理屈がおかしくても信仰をやめようとしない。
そこには何かしらの過度な期待があるから。