何が「善」で、
何が「悪」なのか?
それを決めるのは神でしょうか?
それとも人間でしょうか?
一つの宗教でしょうか?
わたしは「ある宗教」を信仰する家庭の中で生まれました(世間ではカルトと呼ぶ人も多いです)。
親が信仰を始めたので、その子であるわたしは二世信者と呼ばれます。
2019年現在、わたしは家族の中でたった一人宗教をやめています。
30歳を目前に宗教をやめることにしたのです。
生まれたときから宗教の中で育ってきたわたしにとっては、そこが世界のすべてでした。
だからこそ、「宗教をやめる」ということは人生がひっくり返るくらい大きな決断が必要だったのです。
もしも「死」というものが、今いる世界から別の世界へ生まれ変わるという意味なら、わたしは一度死んでいると言えるでしょう。
そう思えるくらい、わたしの人生にとって宗教をやめることは大事件だったのです。
- しっかり教義を守る二世信者としての自分
- 少しずつ、けど着実に宗教離れが進む
- 自分でも信じられない不信仰
- 「信仰を望んでいない」と言語化したことによる気づきの嵐
- 家族を取るか自分の人生を取るかの迷いと決断
- 最後に
しっかり教義を守る二世信者としての自分
子供のころから、
決まった時間に決まった宗教儀式をする
決まった曜日に決まって宗教の集会に参加する
というのが日常でした。
日々の生活の中でやってはいけないこともたくさんありました。
- 学校行事や友達との時間を宗教より優先してはいけない
- このテレビ番組を見てはいけない
- 決まった歌手の曲は聴いてもいけないし歌ってもいけない(歌詞が悪いから)
子供のころからそうだったので、それらを無条件に受け入れて育ってきました。
そういう教義はしっかり守ってきたこともあり、その宗教の中ではちゃんと信仰している二世信者という部類にいたように思います。
小学校、
中学校、
高校、
社会人になっても自発的に信仰を続けていました。
教団職員に誘われたこともありました(断りましたけど)。
気持ちに変化が出てきたのは、社会人になってしばらくしてからだったように記憶しています。20代も後半にさしかかったころです。
少しずつ、けど着実に宗教離れが進む
一人暮らしをはじめて社会生活を続ける中で、わたしは自分の信仰心が薄れていくのを感じていました。
他の信者と関わる時間が減り、そもそも集会に参加する回数も減っていったのです。
まず、職場などで信者以外の人たちと関わる機会を多く持つようになった影響が大きかったように思います。
その人たちは、わたしの信仰していた宗教が
「教義を知らない救うべき対象」
「完全な状態を目指して信仰していない可哀そうな人たち」
「悪の世界の住人たち」
と言って遠回しに断罪するような人たちでした。
それなのに、わたしは宗教の教義とか知らないそのままの彼ら彼女らが好きになっていたのです。
信仰者なら彼らを勧誘して宗教に引き込むべきなのでしょうが、そんなことをしようとも思わなかったのです。
また、教典以外の本を読むようになった影響も大きいです。
- 心理学
- 自己啓発
- 社会派小説
- ビジネス書
これらの本は、わたしの中で新鮮な観点を育むことになり、一つの宗教の教義に固執するより、もっと広い視点をわたしに与えてくれたのです。
だからと言って、すぐに「宗教をやめよう」と思い立ったわけではありません。
冒頭でも言いましたが、それまでのわたしにとっては宗教が世界そのものだったからです。
今だからこそ、それを客観的に認識できますが、世界の中にどっぷり浸かっているころは「宗教をやめる」という概念すらありませんでした。
現状に代わる選択を知らなかったとも言えるでしょう。
ただ、言葉にならない葛藤が常にあり、それがどんどん膨らんでいくことは感じていました。
コップに水をそそぐようにその葛藤は心の中でかさを増していき、どこかで限界を迎えてあふれ出るような気がして、言語化されない不安の中でかろうじて信仰を続けていました。
自分でも信じられない不信仰
30代を目前に控えたころ、
わたしはその宗教の中で一つの大きなタブーをおかします。
多くの人が関わるので詳しくは書けませんが、複数の信者と交わした誓いを破ったのです。それは「やってはいけないこと」でした。
家族は驚き、直接的間接的にわたしを非難しました。
誓いを結んでいた信者たちも、それぞれで何度もわたしを説得しようと連絡を取ってきて、ファミレスで話し合いました。
しかし、一番驚いていたのは自分自身でした。
「もしもこの誓いを破らなければ自分は『信仰者の鑑』となれたはずなのに」
わたしは自分の思考とは違って、信仰者として道を外れる「誓いを破る」という行動を取っていたのです。
それは明らかな「裏切り行為」でした。
家族やほかの信者たちを傷つけることはわかっていたのに…。
自分でもなぜそうしたのかわかりませんでした。
ただ、
「このままでは大切な何かを失う!」
という防衛反応が行動を促進させていくのです。
あの言語化されない不安がコップいっぱいになっていきました。
「信仰を望んでいない」と言語化したことによる気づきの嵐
気付きというものは突然やってくるものです。
それは通勤中の電車の中でした。
わたしは遂に一つの言葉を頭に思い浮かべました。
「自分はこの宗教の信仰を望んでいない」
たった一言、たったこの一言を意識できる言葉にしたその瞬間、なにかの封印が解けたかのように多くの思考が頭の中になだれ込んでくるではないですか!(「バルス」よろしく)
そして多くのことが頭の中でつながっていくのです!
- 小学生の頃、一度だけ強く親に反発して集会に参加しなかった理由
- 教団職員への勧誘を断った理由
- とにかく信者たちがいない場所に引っ越そうと躍起になった理由
- 宗教の誓いや暗黙の了解を破った理由
「あの時も!あの時も!あの時も!」
信仰を望まない自分を自覚した瞬間から、見ていた世界はとてもフラットに映りました。
世界は一つの宗教の善悪や価値観に限定されない。
そう気付いた時に「もう自分に宗教は必要ないな」という結論を導き出していました。
家族を取るか自分の人生を取るかの迷いと決断
しかし、それは同時に現実的には「宗教をやめる」ということです。
真っ先に思い浮かんだの家族の存在です。
わたしたち家族の関係性には、宗教が複雑に絡み合っていました。
宗教をやめることは、家族との関係性に大きな影響を与えることは明白なことです。
「家族との関係性を取るか」
「それとも自分の人生を取るか」
・
・
・
わたしは自分の人生を生きることにしました。
後悔しながら生きたくなかったからです。
親や家族に宗教をやめることを伝えるときはとても緊張しました(申し訳ない気持ちもあったのかもしれません)。
最初は電話で「宗教をやめる」と親に伝えました。
電話の先の親は明らかに動揺していて
「もう一度セミナーに参加して考え直してみて!」
と懇願されました。
けど、もうまったくその気はないと言って断りました。
了承を得るのに時間はかかりましたが、一応やめることはできました。
(その後も家族で「どうやって連れ戻すか」という話し合いは続けているようでしたが…)
- もう誰にも頼れない。
- 家族にも理解してもらえない。
- 社会的な実力もない。
そんな不安と恐怖を抱きながらも、一人静かに「孤独な決意」を持って新たな人生を出発しました。
やめたばかりのころは「本当に良かったのだろうか?」という不安が大きかったです。
けど、もしも今、宗教をやめて良かったか? と聞かれたら、間違いなく
「Yes」
と答えます。
最後に
何が「善」で、
何が「悪」なのか?
それを決めるのは神でしょうか?
それとも人間でしょうか?
一つの宗教でしょうか?
おそらくどれも違うのでしょう。
善も悪も、
- 時代背景
- 宗教
- 個人の見方や立ち位置
- 社会
によって変化するからです。
本来は正義の反対は悪ではなく、別の正義があるのではないでしょうか?
しかし、誰かが善を主張して線引きをすれば、その線から外れたものは悪になるでしょう(そしてわたしは家族が信仰している宗教から見れば悪です)。
善を定義したら悪が生まれるのなら、悪を創り出したのも善を創り出したのも同一人物です。
そう思えるようになった今では、
いつでもやめることができて
いつでも始めることができる
いつでも自分を変えられる
という善にも悪にも影響されないニュートラルな生き方を追求しています。
それこそが本当の「自由」の意味だと考えているからです。