このブログの方針には「本人の意志で宗教をやめるかやめないかを決めるべきだ」というものがあります。
自分の人生は自分で選ぶものだと考えているからです。
説得されて宗教をやめたのでは、本人は宗教をやめても、結局誰かの言いなりに変わりありません。
また、説得してやめさせると、その後の人生に暗い影を残すことにもなりかねません。
そもそも、宗教をやめるのに理由は必要ありません。
むしろ宗教を続けるのに理由が必要なだけです。
続ける理由がなくなれば、自然と宗教を手放すことになるのではないかと思います(少なくともわたしはそうでした)。
存在しない理由に説得することはできません。
大切なのは、
- どのような感情を手に入れたくて信仰をしているか(理由・目的)
- それを果たす手段として、果たして宗教は適切なのか(手段)
ということを明確にしていくことです。
過去・現在・未来3つの感情
「身内が宗教を始めた」と、説得しようとする人は少なくありません。
心配なのはわかりますが、十中八九効果はないでしょう。
宗教に熱心な人は理屈ではなく感情で信仰しているからです。
説得は相手の理性に訴えかけるもので、完全に狙う的(まと)を間違えています。
宗教に傾倒した身内に接する際は、最初に
「どのような感情で信仰しているのか」
ということを理解しておく必要があります。
では、一体どのような感情を抱きながら信仰をしているのでしょうか?
ここでは大きく分けて
- 過去の感情(感動)
- 現在の感情(特別感・優越感)
- 未来への感情(不安)
という三つの感情を軸に考えていきます。
1.過去の感情(感動)
「過去の感情」とは、その宗教に入信するきっかけとなった感情を揺さぶるほどの感動です。
かなり衝撃的な体験がベースになっているケースが少なくありません。
よくあるものを例に挙げると、
- 病気が治った(鬱、癌が多い)
- 神や仏、または教祖が夢にでてきてお告げを残した(どの宗教にもよくある話)
- 人生の悩みを解決してくれた(救われた経験と呼ばれる)
といったものが多いです。
共通しているのはそれらのことを「奇跡」として捉えていることです。
理屈では説明できない現象を目の前にすると、人は奇跡が自分に起こったと信じやすくなります。
そして、それらを否定するという選択肢はその時点でほとんど消え去ります。
再度になりますが、熱心な信者は理屈ではなく経験的な感情(感動)を糧に信仰しています。
説得するということは、その感動的な体験を否定することです。
映画の感動のクライマックスで涙しているときに「あの主人公の口臭そう」とか言われたら、大抵の人は嫌悪感を示しますよね?(わたしは笑います)
感動を否定する説得は、その人の自尊心を傷つけることにもなり、むしろ逆効果ということも考えられます。
過去の感情は、
「もう一度あのときと同じような体験がしたい!」
と、潜在的に信者の心に残っています。
それが、信仰を続ける理由であり、行動を正当化する原動力です。
過去の感情で信仰している人の特徴
過去の感情、つまり体験的感動を目的にしている信者は、「もう一度あの感動を獲得する」という目標を持って、宗教活動という手段に没頭しています。
しかし、その本質は「過去の経験に酔っていれば、現実に目覚めなくて済む」という現実逃避に近いものです。
そんな信者の行動や態度には以下のような傾向があります。
- 過去の話をよくする
- 「過去と違う!」と分派を作る
- 感動や奇跡体験を偽装する(自分を偽って感動したフリ)
過去の感動が頂点にあるので、それ以上の感動が現れないでフラストレーションを抱えていることもあります。
このような信者は目を合わせても、何か違うことを考えているような印象を受けます。
2.現在の感情(特別感・優越感)
「現在の感情」とは、特別でありたいという感情です。
- 人より優れている
- 人生の勝者だ
と感じていたい、という一種の優越感に近いものです。
もちろん本人は「自分が優越感のために信仰している」だなんて受け入れられません。
その代わりに、
- 使命を与えられた
- 自己犠牲
- 選ばれた神の子
- 別の次元
- 天国へ入る権限
- 信仰すれば神が守ってくれる(これは未来の感情にもつながる)
といった表現で他者と区別して、自分が特別だということをアピールします。
この感情に執着する信者は、自身の劣等感から目をそらしたいがゆえに信仰を続けている節があります。
少し説明が難しいのですが、「自分は他の人たちより劣っている」という気持ちの裏返しとして、「人より特別でありたい」という思いを強くします。
ここまでは何の問題もありません。
健全であれば、学習や努力によってその劣等感を克服していきます。
しかし、そんな努力をしなくても、宗教に所属しているというだけで「自分は特別だ」と勘違いしてしまっているのが実情です。
それは、安易に優越感を手に入れようとする行為と言っていいでしょう。
その人たちは劣等感を克服したのではありません。
自分を偽って、劣等感から目をそらす手段として宗教を利用しただけです。
口では自己犠牲を唱えながら、「自己犠牲とか言ってる俺ってかっこよくね?」と内心では思っています。
表向きは自己犠牲、
裏側は自己欺瞞です。
多くの宗教がそのような人たちを集めやすい性質があります。
現在の感情で信仰している人の特徴
現在の感情で信仰している信者は「特別であることを実感し続けたい」という目的から、活発に行動する傾向があります。
「自分は特別だ」という気持ちが自信につながっているからでしょうか、自立している印象を相手に与えやすいのも特徴的です。
また、率先して話をする傾向もあります。
良いほうにいけば説得力がありますが、悪い方にいけば面倒くさいくらいにおしゃべりです。
まとめると、
- 活発に宗教活動に参加している
- 自立した印象を与えやすい
- よくしゃべる、説得しようとしてくる
といったところでしょうか。
宗教組織を支えているのは大抵このような信者たちです。
3.未来の感情
未来の感情とは、現在の平和を失う恐怖心です。
何が起こるかわからない未来に立ち向かう勇気が持てない、と言ったほうがわかりやすいかも知れません。
だからこそ未来の保証を宗教に求めるのです。
病気や事故、事件といった困難に遭遇したときに、「それは自分の責任じゃない」と言える状況にしたいのが本心です。
宗教の集まりや活動をしているときに、信者がとてもエネルギッシュになることがあります。それは何が起きても最終的な責任は神や仏、教祖がとってくれると思っているからです。
「他人に責任がある」
「未来は保証されている」
という気持ちが、「なら何をやっても良い」という結論に至らせます。
宗教活動に熱意を持って取り組むのは、それを担保にして未来が保証されると考えているからです。
また、目の前の作業に没頭することで、人生の責任を負わない理由にする目的もあります。
未来の感情で信仰している人の特徴
未来の感情で信仰している信者は落ち着きがありません。
そもそも宗教を信仰している理由が未来の安全を保証してほしいからなので、その保証に確信が持てない場合には不安な表情を見せます。
分派ができた場合には、より将来が保証されそうな組織に移行しやすいのも特徴です。
自分では何かを決めるということが得意ではなく、人と合わせたり、質問をたくさんしたりします。
また、この信者にとって信じている宗教を否定されるということは、自分の保証を脅かすことになります。
そのため、無理に説得しようとすると反動的に余計宗教にのめりこむ可能性もあります。
最後に~説得ではなく目的に目を向ける~
ここであげた感情は全体の一部ですが、信者はこのようないくつかの感情を併せ持って信仰を続けています。
大切なのは「どんな感情を手に入れたくて宗教を信仰しているのか」という目的を明確にすることです。
宗教自体は目的ではありません。あくまで手段です。
冒頭でも言いましたが、本人の意思を尊重するためにも、無理やり説得して宗教をやめさせるべきではありません。
後に尾を引くことも考えられます。
宗教をやめようとしないのは、自分自身がどのよう目的で信仰しているのかを自覚できていないからです。
目的が自覚できていなければ、現状に代わる選択も見いだせません。
そもそもの目的がわかれば、わざわざ宗教じゃなくても良いはずです。
どうしてこのような記事を書こうと思ったかというと、過去に書いた
「家族がカルト教団に入信した!そんな時の心構え」という記事(以下リンク)
が相当に読み込まれていることを知ったからです。
この記事、読もうと思えば5分もかからずに読めます。
しかし、何気なく解析ツールでこの記事の滞在時間(この記事を読むのにどれくらい時間をかけたか)を見てみると、なんと平均約10分かけて読まれているんです(平均ですよ!?)。
じっくり読まないと10分かけるのは難しいのではないでしょうか?
つまり、それだけ身内や家族が宗教にハマって悩んでいる人が多いということではないかと思ったんです。
わたしはもちろん専門家ではありません(まあ、この分野に専門家なんて存在しないんですけど…)。
それでも一度は内側を見た人のアドバイスは貴重なのではないかと思い、こういう内容も発信すべきかなと考えました。