僕が宗教をやめた理由

【実録】30年間信仰していた新興宗教をやめた男の体験記

新興宗教やめました。

f:id:neutral-life:20170430110108j:plain

「冷やし中華はじめました」

「新興宗教やめました」

とでは、響きは似ていても意味合いは全然ちがいます。そりゃそうか?

 

ところで冷やし中華をはじめるのと、新興宗教やめるのとではどっちが難しいのかちょっと気になるところではあります。

 

 

冷やし中華はじめるほうが面倒。

わたしは生まれたときから30年信仰を続けていた宗教をやめたのですが、やめる前はかなりの力が必要だと思っていました。

 

しかし、いざやめてみると「なぜ今までずっとあの環境を受け入れていたのだろう?」と逆に宗教組織に所属し続けることに困難を感じます。

 

で、冷やし中華を始めるのと新興宗教やめるのとではどっちが難しいのか?

 

現実として、お店で冷やし中華を始めるには

  • キュウリ
  • 鶏肉(それかハム)

などの仕入れと保管が必要です。品質管理やランニングコストなどを考えると結構難しいことではないでしょうか?

 

それに比べると新興宗教は今まであったものを無くすことなので、むしろ自由を手に入れること。実際にわたしも自分の時間を多く手に入れることができました。

 

そう考えると今よく言われている「断捨離」の感覚に近いですね?

今まであるものを捨てる(わたしの場合はヤフオクに出してちゃっかりお金を稼いでますが…)。

 

それってそこまで難しいことではないはずなんです。

冷やし中華を始める労力に比べれば。

冷やし中華を始める人には失礼かもしれませんが、新しく冷やし中華を始めるのは面倒ですよね?

 

けど、新興宗教をやめるのは逆に面倒ごとが1つ減るんです。どっちがラク?

 

それでも宗教をやめるのが難しい

ここまで新興宗教やめることがカンタンかのように書きましたが、やっぱり難しいんです。

 

特にわたしのように生まれた時からその宗教の中にいた人間にとって、宗教をやめることは困難極まりないです。

 

「宗教をやめると地獄に落ちるのではないか?」
「本当にこれで正しいのだろうか?」
「家族は?人の目は?」

いろんな不安があたまをよぎるんです。今となっては「もっと早くにやめればよかった…」と思っているんですけど。

 

当時は宗教をやめることにかなり強い恐怖を感じました。

しかし、内心では「ここにずっといてはいけない」という声もあり、ある時その声があの恐怖に勝ったんです。

 

人間手に入れるより手放すほうが難しい

今まで積み上げてきたもの。例えば以下のようなもの。

  • 宗教内での地位・名声
  • 人間関係
  • 信仰心

こういったものを手放すことは、今までの自分を否定しているようで気分のいいものではありませんでした。

 

それは何か新しいことを始める(例えば冷やし中華)のと比べると、そこまで高揚感や希望のようなものは感じない、むしろ不安が募るものです。

 

人間誰もが幸せになりたいし不幸にはなりたくない。

だからこそ先行きの見えないものには「もしかしたら不幸になるのでは?」という不安と恐怖を覚えます。

 

結局のところ人間手に入れるより手放すほうが難しいのだと痛感しています。

 

ニュートラルな生き方が1番

わたしが宗教の中にいたときその教義の中で善悪が決まっていました。

 

だから実際にその宗教の外の人が平気でわたしの善悪観を犯すことに嫌悪感を常に覚えていたのも事実です。

 

難しいのがその善悪観から距離をおくこと。

今日もその見方は強くわたしに影響を与えてきます。

 

今では有益な見方だけは残しておいて、その他の役に立たないものには距離をおくことができるようになってきましたが、宗教をやめる前後は強い罪悪感がありました(今でもありますが、前ほどではありません)。

 

何が善で何が悪かを常に考えていたあの頃は常に自分の行動や他人の行動を監視しているような感じで、心の中では(正直なはなし)自分以外の人を見下していたんだとおもいます。

 

自分はその宗教に所属しているから、いわゆる「善の側」にいる。

それに比べて一般の人はそれに気づかないで哀れだ。
※特に自分の教義に強いこだわりを持つ新興宗教は、自分の宗教に属さない人たちのことをよく「一般の人」と表現します。

 

しかし、それは同時に不安でもありました。

その不安の正体は恐らく「自分は特別な人間ではない」という不安でした。

 

数十年間、優越感と不安の狭間で生きてきて、その人生を手放そうと決意したときにやっと気づいたんです。

 

何が善で何が悪かというより、そこから一歩離れたニュートラルな生き方こそが本当の自由なんだと。

そう思ったときに宗教をやめることへの恐怖が少しずつ減っていきました。

 

家族は今でもわたしが宗教に戻ることを望んでいる

そしてバリバリ信者の親に「〇〇教をやめる」というと、困惑した表情を見せました。

 

親どころか家族全員がどうしていいのかわからないのか、関係がギクシャクしだしてチャットなどでも本質には触れない程度にやりとりしています。

 

ただし、たまたま母がチャットで家族とやりとりしている文面を見ると「頑張って説得してきて!」という内容が見受けられます。リアルでしょ?

※これについてはまた別の機会に記事にします。

 

2017年5月現在、家族はわたしをその宗教に連れ戻すことがだと考えているのでしょう。

わたしはそれに対しては距離を置いています。

 

冷やし中華は労力面で始めるのが困難ですが、宗教は家族を含む人間関係やコミュニティがやめることを困難にしているケースが少なくありません(ていうかそれがほとんど)。

 

やっぱり冷やし中華を始めるより宗教やめるほうが難しい…かも?

 

 これからいろいろ体験談やら内部分析などを紹介

今回この記事ははじめての投稿です。

そんなこともあり、全体的なことを抽象的に書いてみました。

 

ついでに言えば日高屋で冷やし中華を食べようかと思い立ったタイミングで記事を書き始めたので、本来比較すべきではないものと比較したような気もしなくもないです。

 

こんな調子ですが「個性つよい!」という感じで、このブログを楽しんでもらえればと思います。

 

新興宗教の内情や人間模様などいろいろ紹介していきます。

 

あ、はい。重いトピックでエンターテイメント的なのを目指しています。

 

はてぶユーザーは読者登録、はてなブックマーク大歓迎です。よろしくお願いします!

 

追伸

日高屋の冷やし中華、なかなか出てこない。