何故、人はなかなか宗教をやめる(棄教)ことができないのでしょうか?
新興宗教を外側から眺めている人からすると、
「意志が弱いんじゃないか?」
「精神的支えが欲しかったんじゃないか?」
「洗脳されているのではないか?」
と、様々な見方があります。
どれもハズレではありませんが少し具体性に欠けるように思います。
今回はわたしの経験則から信者が宗教をやめられない9つの理由をあげてみました。
ほとんどの人はこれからあげる理由の内、
- 1つが大きな要因
- それ以外の理由が副次的な要因
というように複数の理由を抱えています。
そのためどれか1つを解決しても別の理由が歯止めをかけることになり、理由が多いほど宗教をやめることは困難です。
わたし個人が宗教の中にいた経験からの見解なので「100%これが正しい!」とは言い切れませんが、大体は以下の理由で間違っていないと思います。
- 理由①:身内が引き止めるまたは信仰を強制している
- 理由②:あきらめている(それに代わる選択肢をしらない)
- 理由③:宗教の中で結婚し所帯を持っている
- 理由④:そもそもなにかをやめるように人間できていない
- 理由⑤:地位や名誉が手放せない
- 理由⑥:自分の人生に責任を持つのが怖い
- 理由⑦:過去の「救われた経験」「感動体験」が忘れられない
- 理由⑧:他の信者の目が気になる
- 理由⑨: 「やめる」という概念すらない
- 最後に
理由①:身内が引き止めるまたは信仰を強制している
身内と一緒に宗教に所属していると、宗教をやめることに躊躇(ちゅうちょ)してしまいます。
友だちや顔見知り程度の他人なら、連絡を絶つなど対策はカンタンです。
しかし、
- 両親
- 兄弟
- 夫・妻
- 親戚
のような縁を切れない関係になってくると話は別。
身内なので完全に連絡を絶つことは難しいですよね?
「宗教をやめる」と言った日には家族としてではなく「信者」として非難されます。
家族からの非難が辛くて宗教をやめられない信者は、世間が思っている以上に多くいます。
理由②:あきらめている(それに代わる選択肢をしらない)
「今さらやめることなんてできない…」
そういって宗教をやめること自体をあきらめている信者もいます。
- 高齢になって他にあてがない
- 家族に見放された
- お金がないから宗教に生活させてもらうしかない
- 家族が許してくれない
言い分はさまざまですが、本当の理由は現状に代わる選択をしらないだけのことです。
宗教活動で自分を見失ったと思い込んで、失望の中で信仰をしています。
今からでも新しいことを始めればできるにも関わらず、その気力すら失ってしまっている状態です。
理由③:宗教の中で結婚し所帯を持っている
理由①と内容がかぶる部分でもありますが、宗教の中で結婚して家庭を持っているとやめるにやめられなくなります。
配偶者は当然信者で、生まれてきた子どもも二世信者。
そうなると家族を置いて自分だけやめるなんてことはできません。
また、
- 夫側の両親兄弟
- 妻側の両親兄弟
双方の家族を巻き込むことになるので、夫婦間だけで話が終わらないのも宗教をやめることを困難にします。
多くのリスクを覚悟するため、宗教の中で所帯を持っている人は棄教するハードルが非常に高いです。
理由④:そもそもなにかをやめるように人間できていない
これはより科学的な観点になりますが、人間の脳は現状の習慣をやめることを非常に嫌うものです。
タバコなども習慣になるとなかなかやめられませんよね?
それは宗教での生活も例外ではなく、長く信仰してきた環境を捨てることは人の行動心理が許さないのです。
言い方を変えれば「安全地帯」から抜け出すことは脳が危険だと判断してしまいます。
一時的にストップすることはできますが、完全にやめることはできません。
「それじゃ一生やめられないじゃないか…」
実はこの場合シンプルな解決策があります。
今までの生活を新しい生活に差し替えることです。
発想の転換になりますが、
- 今やっていることをやめることに意識をとらわれず
- 新しい行動で今までやっていたことに時間を与えない
というのがスムーズで現実的な解決策になります。
具体的には、
- 生活の環境を変える・引っ越す
- 趣味・仕事・副業に時間を割く
- 集会に参加する回数を減らしてもっと自己投資に力を入れる
などなど。
こうすることで意識的に宗教をやめるハードルがどんどん下がっていきます。
時間が経つにつれて「あれ?なんであんなに熱心に信仰していたのだろう?」と気持ちが冷静になっていくので、精神的に負担が減ります。
理由⑤:地位や名誉が手放せない
長くその宗教に所属していると、
- 責任ある役職
- 表彰されるほどの実績
- 周囲からの尊敬
というような地位や名誉が蓄えられていきます。
しかし宗教をやめてしまうと、今まで築き上げてきた地位や名誉が音を立てて崩れていくのです。
「〇〇さんは素晴らしい!」
「信仰者の鑑(かがみ)ですね!」
「実績をだす〇〇さんがうらやましい」
このようなことを言われ続けてうれしくない人はいないですよね?
特に宗教にどっぷりつかった信者にとってはそこが社会のすべてだと思ってしまっています。
周囲からの羨望を手放してしまうと自分の存在価値を失うようで、それは「社会的な死」を意味します。
実際はその宗教組織の中だけの社会なのですが…。
自分の存在価値を限定された宗教組織の中で見出そうとすると、宗教をやめることに強い恐怖を感じてしまい、意欲を失ってしまいやすくなります。
理由⑥:自分の人生に責任を持つのが怖い
誰もが自分の人生に責任を持つことを恐れます。
宗教を熱心に信仰する人は、自分の人生の責任を回避する手段として宗教活動をしている人が少なくありません。
「今は宗教活動で忙しいからわたしのことは後回し」
「教義をしっかり身につけてから自分のことをするよ」
「何よりも先に神様、仏様、教祖様の導きを優先させるの」
このようなことを言って自分の人生を浪費します。
この言葉を使う信者はこのブログで言っている「信仰重視タイプ」です。
人生の責任を自分以外の神や教祖、教義に転嫁(てんか)していてそれを正当化するのに忙しい人たちです。
人生の航路を自分で舵を切らず、誰かが自分の代わりに面舵を切って危険を回避してくれると思っている、都合の良い考え方をします。
ずっとそうやって生きてきた人は、人生に責任を持つことが恐ろしくて宗教をやめることをしません。
理由⑦:過去の「救われた経験」「感動体験」が忘れられない
少し説明が難しいのですが、過去に宗教よってもたらされた、
- 救われた経験
- 感動体験
- 不思議な体験(本人は奇跡として認識している)
などが忘れられず「もう一度あんな体験がしたい」という欲求から宗教をやめることを躊躇(ちゅうちょ)することがあります。
信者は宗教に入信する前後に人生がひっくり返るほど衝撃を受ける体験をしていることがあります。
その時に感じた強い感情的ゆさぶりはいつまでも忘れることができません。
「究極の真理に触れた」「神に出会った、導かれた」
「奇跡を目の当たりにした」「愛によって救われた」
「目が覚めた、覚醒した」「〇〇様の声(願い)を聞いた」
言い方はさまざまですが、その強烈な体験ゆえに新興宗教をやめるという判断が薄れていくのです。
強烈な感動体験を求めて分派や別の宗教に改宗する人もいます。
このような人たちは厳密には宗教を信仰しているわけではありません。
感動体験や奇跡(そのほとんどが自分に都合の良いもの)を信仰しています。目的がそっちにあるので同じことをずっとくり返す厄介な状況です。
※ちなみにわたしが宗教に所属していたころはこのような信仰の仕方を「あの感動をもう一度信仰」と呼んでいました。ど真ん中な表現だと思いませんか?(笑)
理由⑧:他の信者の目が気になる
ほとんどの新興宗教は集団での活動に力を入れています。
そのためそのコミュニティの中にいつづけると一種の仲間意識が生まれ、その結束はとても強いものになります。
理由①の家族と似ていますが、違いとしてコミュニティの絶対数が家族より圧倒的に多いことです。
- イベントに参加したときにお世話になった先輩信者
- 教会で交流の多かった仲間
- 気にかけてくれた幹部
- 面倒を見た後輩信者
その人たちの顔が思い浮かぶと、自分が宗教をやめることに対して罪悪感を覚えます。
同じ釜の飯を食べた仲間を裏切るような気持ちです。
家族ではないにしても、家族のように感情的なつながりを持った人たち。
「そんな人たち悲しませてしまう…」と考えてしまうと宗教をやめることをためらってしまいます。
理由⑨: 「やめる」という概念すらない
ほとんどの信者は生活の中に宗教が呼吸する空気のように根付いていて「宗教をやめる」という概念すら思いつきません。
理由⑧までは「やめようと思ってもやめられない理由」をあげましたが、最後の理由⑨はそれとは別です。
そして信者の中で一番人数を占めるのがこのような人たちになります。
宗教をやめるとは息を止めて呼吸をしないと近い感覚です。
わたしも元々そうでした。
「え?宗教やめるの?理解できない」
「〇〇さん離れたんだって。かわいそう」
「何とかもう一度戻ってくる方法を考えてあげなくちゃ!」
所属している宗教こそが絶対善だと思っているので、
- 新しく伝道したり
- 一度やめた人を引き戻そうとしたり
- 離れないようにしたり
このようにすることが相手のためだと本気で信じているんです。
そんな人たちに宗教をやめるという選択肢は存在しません。
最後に
いかがだったでしょうか?
もちろんここに挙げた理由以外でやめないという信者もいるでしょう。
しかし、突き詰めてみると宗教をやめられない理由は単純。
これまで挙げた理由はほとんど行動や決断をしないための言い訳のようなものです。
ありもしない未来に対して不安や恐怖を抱いて、
- 挑戦しない言い訳
- 行動に移さない言い訳
を並べます。
もちろん単純ではありますがカンタンなことではありません。
多くの宗教信者が行動しない理由を宗教活動にあげます。
わたしも宗教それ自体を否定することはしません。
しかし行動しない理由のために宗教を信仰することを果たして本当に信仰というのかは疑問です。
そのような人たちはむしろ宗教に頼らない方が健全な人生を送れるのではないかと…。
宗教をやめた今だからこそ思えることかもしれませんね?