最近ニュースで騒がれていた「保毛尾田保毛男(ほもだほもお)」という28年前にとんねるずが演じたキャラクター。
番組の30周年記念として、懐かしのキャラクターとして演じたのですが、30年という時の流れが思いのほか激しい変化の中にあったのか、
「性的少数者を侮蔑している」
「時代に合わない」
「差別を助長する」
と、倫理的な問題を指摘する問い合わせがあったそうです。それが良いのか悪いのかはきっと見る立場の価値観もあるのでここでは特には触れません。
ところで、思い出してみると、わたしがいた宗教の中にも非常に少数ですが、女っ気のある男性信者がいました。その経験を少しだけお話させてください。
宗教によって二世の性的少数者は生きづらい
海外には同性愛者に寛容な国もありますが、日本や韓国、モンゴルのような地域ではそれほど受け入れられていません。中国に至って同性愛は違法です。
しかし、実質同性愛に強く影響を与えているのは、人間の歴史と常に共にあった宗教ともいえます。
- キリスト教
- イスラム教
- ヒンドゥー教
このような、わたしたちが“大きな宗教”と言われて思いつくところは大体同性愛に否定的です。仏教や神道はグレーかな?
二世信者のSくんは最初、自分の“話し言葉”を隠していた
わたしのいた宗教は同性愛を非常に軽蔑していました。教理からすると(たとえ病気でも)同性愛はアウトです(ただ、社会的なこともあるので表立って大声では言っていません)。
そんな中で育ったこともあるのでしょう、わたし自身もあまり性的少数者と呼ばれる人たちを受け入れる態度は育っていません。まあ、そこは個人の自由ということで。
同時に自分のいた宗教にはそのような信者はいない…
と、思っていたのは高校生になったかならないかくらいの頃までのことでした。
わたしはSくんという二世信者にあいました。なんか全国の二世信者が集まるセミナーだったか集会だったかと思うんですが、集団行動する際結構一緒にいました。
(以前記事にした、以下の記事と同じセミナーだったような気もします)
Sくんはわたしより年下(たしか中学生?)だったのですが、爆裂におもしろくて、ずっと腹をかかえて笑っていたのを思い出します。
その集会が終わりに近づくころ、グループは別でしたがSくんと同じ地域にいる二世信者Aくんとも仲良くなりました。SくんとAくん、そしてわたしの三人で話していたとき、話の流れでAくんがわたしにこう言いました。
「こいつ(Sくん)ちょっとこれ入ってるから」
そういって、右手の甲を頬にあてました。
最初は育った環境もあって、その意味を理解することができませんでした。しかし、Aくんがそう言ってからSくんの話口調が変わったのです。
「も~いわないでよ~、恥ずかしいじゃな~い」
ん?って思いました。数秒の間が空いてからやっと理解しました。Sくんは女性らしい男子だったのです。
それでもやっぱりSくんはおもしろかった
高校生だったので、割合教理については理解しているほうだったし、Sくんのような女っ気のある男性は教理から外れていることもわかっていました。
けど、それでもSくんはおもしろかたんです。ていうか、そっちの気があるとわかってからが余計におもしろかったです。冒頭の「保毛尾田保毛男」は性的少数者をバカにしている、差別しているということで問題になっていたのでしょうが、やっぱりおもしろいんです。
バラエティ番組や世間一般に広がっている“笑い”とは、結局のところアブノーマルのものを笑っていると言っても過言ではありません。それ以外の「おもしろい」と言われる笑いとはなんなのか逆に聞きたいくらいです。普通とは違うからこそ笑いが起こるのでしょう(それが善か悪かは別として)。
Sくんはそのキャラが際立って、さらにおもしろさが増しました。
しかし、教理が教理なだけに、最初は自分自身を見せることができなかったのだと思うと、その宗教の中できっと生きづらい思いをしたのでしょう。
宗教の中の二世障がい者
わたしのいた宗教には身体に障がいを持っている二世や、
- 自閉症
- ダウン症候群
- アスペルガー症候群
- 発達障害
- ADHD
と呼ばれる精神面に障がいのある二世信者もいました。わたしの親戚にもいます。
わたしのいた宗教ではこのような精神的な障がいをもって生まれたのは、
- 過去・現在の行い
- 先祖や人との因縁
などが原因だという見方をしていました。ネットを見ると結構そういう宗教多いです(あ、うちだけじゃなかったんだ、って感じです)。
障がいを持った二世信者に宗教は必要か?
障がいをもった二世信者の気持ちは正直わたしにはわかりません。
しかし、一般社会で生きるよりは宗教の中のほうが生活しやすいのかな?と思うこともあります(宗教によるけど)。なぜなら、その二世信者が障がいを持って生れてきた理由を、「因縁だ、行いだ」と一応なりとも説明してくれているからです。
人は今ある結果を引き起こした原因を知ることで、ある一種の安心感を手に入れようとすることがあります。
障がいを持った子を産んだ親、いわゆる一世信者は、
「自分の家庭にこの子が生まれた理由は、教理でいう〇〇が原因だ」
「この子を育てるのはわたしに与えられた天命なのだ」
と、障がいを持って生まれた子を一生懸命育てる動機になるでしょう。
また、人によっては気分を悪くされる表現かもしれませんが、
「この子が生まれたのはわたしのせいではない」
「因縁や行い、過去の先祖のせいだ」
と、自分以外のものに現状の原因を転嫁することもできます。障がいを持った子を産んだ親はとても深い傷を心に負っていることがほとんどです。宗教はその深い傷を一時的にでも慰めることができます。すべての親が強いわけではありません。
そういう面を考えると、障がいを持った二世信者に宗教が必ずしも不要とも言い切れないものです。
過去の因縁ではなく、現在と未来を見据えるなら宗教はいらない
すべての親が強いわけではない、と言った矢先になんですが、いつまでも現状から目を逸らすこともできません。
そのような障がいを持った二世信者が、宗教の中にいることが最善かというとそうでもないからです。親が先祖の因縁や過去の行いについて思いを巡らせていたのでは、その二世信者はいつまでもそのまま前進しません。
(わたしの考えですが)そう考えると、ずっと教理が云々言うよりは、もっと違う見方をしてみるのはどうでしょうか?
たとえば、わたしがいた宗教の中で、恐らくアスペルガー症候群ではないだろうか?という二世信者がいました。仮に彼のことをBくんと呼びます。Bくんは落ち着きがなく、周囲とのコミュニケーションがうまく取れず、人の気持ちを理解することが難しい子でした。
しかし、Bくんはやたら勉強ができる子でもありました。特に数学が得意だったのです。もしもBくんが数学の道を進み続けたら、より社会に貢献できるのではないかと思ってます。
障がいを持っているということで、現状に留まるのではなく、社会的には障がいと言われていても、十分に社会に貢献できるようにすることもできるはずです。
教理にもよりますが、新興宗教は自分の組織に貢献することを第一に考えることが多いため、そのような機会を邪魔することがあります。その二世信者の未来を考えるなら、その宗教をやめることも視野に入れるべきだと、今は思います。
最後に
宗教の中にも
- 性的少数者
- 障がい者
はいます。
宗教の多くはそれを“問題”ととらえて、原因と教理を結び付けて、信者が離れるのを防ごうとします。
その教理が正しいのか間違っているのかはわかりません。実際、今でもわたしは自分のいた宗教の教理が正しいか間違っているかはわからないままです。
けど、今思うのは、本当かどうかわからないものに(わかっているふりをつづけながら)すがるよりも、今変えられるとわかっているものを変えていくことのほうが大事なのではないかということです。
今、宗教の中にいる二世の性的少数者や障がい者(を持つ親)は、目の前の変えられることが何かを考える時間を持つのはどうでしょうか?
その中の選択に宗教をやめるかつづけるかというのを入れてみてもいいかもしれませんね?