数多くの宗教が「世界平和」の大切さを社会に訴えています。同時に数多くの宗教が争いの火種となっている側面は否定できません。
- 中東では宗教テロが未だに蔓延しています
- 日本ではかつてオウム真理教が国家転覆を目論見ました
- 同じ源流でありながらお互いを非難している宗教もあります
私がいた宗教も対社会的には平和を訴えていました。しかし、その中身は信者同士の言い争いや分派への蔑視、他宗教への嘲笑が日常的だったのです。口では平和を語りながら、その態度は自分たち以外の存在を見下しているのがわかりました。
宗教信者はなぜそのような自己矛盾に気づかないのでしょうか?
平和の意味を「宗教の野望」と差し替えている
結論から言ってしまえばこういうことです。
- 世界平和
- 人類家族
- 家庭柔和
- 一家和楽
実はこのような聞こえの良い言葉の背後には、
「私たちの宗教が世界を治める」
「邪教を排斥する」
「すべての人がわが教祖を崇める」
というような、自分たちの宗教が目指す野望と独自の解釈に据え置いているんです。
平和成就(表向き) = 野望達成(実際)
しかし、信者はあまり考えることをしません。そうすると、
「『平和』という美しい言葉なのだから良いことなのだ」
と解釈します。これが宗教が抱える矛盾の正体です。
言葉の意味を差し替えることで信者を操作する宗教
このように言葉の意味を差し替えて信者の行動をコントロールする宗教は少なくありません。そして信者は信者で、無条件に宗教が言っていることを受け入れることから、
- 何の疑いもなくその意味のまま解釈する
- 変だと思いながらも考えることをしない
という状態になります。
平和以外にも、このような言葉の差し替えがあるのでいくつか例を挙げてみました。
時代(表向き)
=都合(実際)
「時代が変わった」
「古い時代が終わり新しい時代が来た」
野望が強く教祖がいる宗教はこの「時代」という単語を好んで使います。
- 現状の組織体制を変える必要があるとき
- お金をたくさん集めるとき
- 信者の心が離れそうなとき
そんなときにはよく「時代が変わること」を理由にして、何かしらの解釈を促したりアクションを起こしたりします。
例えば、宗教の教祖や幹部が何かしらのスキャンダルを起こしたら、「時代が変わるのを恐れた悪魔の所業」と言って責任の所在を別のところに向けるケースは少なくありません。
「時代が変わったから〇〇が許される」という言い方をすることも多いです。
宗教が信者を長くつなぎとめる方法として「規制緩和」がある。
— カチローはもう二世信者じゃない (@neutral_kachiro) 2018年12月27日
例えば、初期の頃は厳しい戒律があったとする。
けど、どこかのタイミングで「新しい時代が来た」とかなんとか言って、戒律を緩め、負担を軽減することで信仰を続けやすくする。そうして信仰を続けた結果、信者は後に引けなくなる。麻薬?
- 時代が変わったからお酒を飲んでも許される
- 時代が変わったから信者以外の人と結婚してもOK
- 時代に合わせて教義も変わった(←これよくやる)
こうして戒律や規則を和らげる「規制緩和」をして、信者をつなぎとめる施策を打つことがあります。
変わったのは時代ではありません。宗教側の都合です。
お布施(表向き)
=金品の要求(実際)
宗教は信者の自主的なお布施が基本となっています。しかし、実際は金品を納めるように精神的な圧力をかけている宗教がいかに多いことか…。
宗教によって言い方は様々あります。
- お布施
- お供え
- 献金
- 心付け
- 財務
- 植福
- 感謝の気持ち
勝手にグループを作って目標金額まで立てる、しかも「感謝の心を持って納めましょう」というなど、もう内容ぐちゃぐちゃなところが少なくないです。集団で「今月の献金どうなっているの?」と家に押しかけてくる宗教もあります。
お布施という名の徴収です(苦笑)。
私は20歳の誕生日に親から「20歳になったから消費者金融でお金を借りてお布施しないと!」と言われたことがあります。お布施の意味ってなんだっけ…。
信仰(表向き)
=服従(実際)※教団の意向に沿って行動すること
宗教をカルト化させる大きな原因に「信仰」に対する解釈の偏りがあります。
教祖や教団の意向に沿って活動すること
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信仰
ととらえている信者が実に多く、そう仕向けている宗教が数多くあるんです。
- たくさんお布施をしたら信仰者
- お布施をたくさん“徴収”しても信仰者
- 家族を犠牲にしてでも宗教活動を優先したら信仰者
- 宗教を嫌がる我が子を説得するため暴力や暴言を行使しても、結果的に引き止めたら信仰者
- 教団が発行する雑誌や本を多く配布したら信仰者
- 相手に嫌がられても勧誘し続けたら信仰者
- 相手を宗教に入信させるために結婚という方法を取ったら信仰者
- 大量殺人やテロをしても、宗教の教義を果たすためなら信仰
信仰に対する偏った解釈の仕方が、どんなに教団にとって都合の良いことに差し替えられているかがわかるでしょうか?
しかし信者たちは気づきません。「信仰」という聞こえの良い言葉を実践していると考えているからです。信仰という名詞が、教団にとって都合の良い解釈に差し替えられているだなんて考えもしないでしょう。
最後に~言葉の定義をもう一度見直すことが大切~
平和、時代、信仰。これらは定義が難しい言葉です。
誰か一人が主張する平和が絶対的に正しいことはありえません。個人や集団など、立場によって平和の意味は違ってくるものです。
ある人が平和を主張すると、それとは違った平和に対する考え方を持った人が現れることで、言い争いが生まれることもあります。皮肉なことに平和が争いを生む元凶にもなりうるのです(平和を叫んでいるはずの人が好戦的な側面を見せることなんて珍しいことでもないでしょう)。
言葉の定義や解釈が、その人の態度や行動に大きく影響を与えます。それを知ることが大切です。信仰という単語一つをとっても、その背後にどのような解釈があるかによって、信者をテロリストにすることもあります。
偏った「平和」への解釈を持った人に銃を渡したら、悪びれるもなく笑いながら引き金を引くこともあるやもしれません。
特にカルト系宗教の信者は、この言葉の解釈が教団にとって都合の良い内容に差し替わっているケースが多いです。言葉の解釈を整理しなおすだけでも、今信仰している宗教に対する見方も変わってくるでしょう。
今一度、あなたが普段使っている言葉の
- 意味
- 定義
- 解釈
を見直してみましょう。気づきはゼロから生まれるのではなく、言葉の解釈を見直すときに現れるものだからです。