“差別”と聞くと何を思い浮かべますか?
- 人種差別(黒人差別に代表される有色人種と白人の違い)
- 男女差別
- 地域差別(特定の地域にいる人たちを差別すること)
- 学歴差別
挙げればキリがありません。
ところで、宗教は差別をするのでしょうか?考えたことありますか?
実は、宗教と差別は複雑な関係にあるんです。
一般的に「宗教差別」と言うと、ある特定の宗教を信じている人に対して、周囲の人たちが蔑視(べっし)の目を向ける、差別するということです。
しかし、今回提起したいのは外側からの差別ではなく、その宗教の内側から外側に向けての差別です。
宗教ごとにある一般社会への差別用語や表現
特にカルト宗教と呼ばれる熱心な信者が集まる新興宗教は、自分たちの宗教団体と一般社会を区別することで成り立っています。
つまり、自分たちの宗教には信じるべき教理があり、
その教理に沿っている人を内側の人、
教理に沿わない人たちを外側の人(一般社会の人)
という見方です。
それ自体は所属という意味では問題ありません。
しかし、わたしが所属してたカルト宗教もそうでしたが、教理に沿わない外側の人に対しての見方が偏っている信者がかなりいました。
そして、
- 自分たち側
- 外側(一般社会)
を、区別するときの用語や表現は、相手を見下したり、差別したりする雰囲気があったのです。いくつか例を挙げます。
霊格が低い
スピリチュアル系の宗教には、よく「霊格」という言葉が使われます。読んで字のごとくですが、個人の人間性に近い言い方です
しかし、単に性格とか人格というものを指しているのではなく、人としてどれだけ徳を積んだか、または罪を犯したかで、この霊格が上がったり下がったりするという考えです。
- 霊格が高ければ、それだけ死後に良い場所(天国とか極楽浄土とか…)に行ける
- 霊格が低ければ、逆に死後悪い場所(地獄とか)に行く
スピリチュアル系宗教の信者の中には、この霊格という単語を差別的な意味で使う人がいます。
それが「霊格が低い」です。
一人の人を指して「あの人は霊格が低い」と言って、哀れんだり、軽蔑したりします。
すべてのスピリチュアル系信者がそうだとは思いませんが、このような言い方をして、相手を見下す信者が少なからずいます。
世の人、この世の人
キリスト教系に多いのがこの「世の人、この世の人」という表現です。
「ん?これのどこが差別用語?」
と思う方もいるでしょう。
実際に意味も知らないまま、世の人、この世の人を使っている信者は少なくありません。
「世の人、この世の人」という表現はどこから来ているのか?実は聖書にその答えがあるんです。
聖書の中にある「コリント人への手紙 第二 4:4」にはこのような記述があります。
その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(コリント人への手紙 第二 4:4)
ここには2回“神”という言葉がでてきています。
最初の神というのはいわゆる「悪魔」とか「サタン」と呼ばれるものです。
神が創造した世界を奪ったことで、実質的に世界を支配していることからこの世の神(実質的な世界の支配者)という呼ばれ方をしています。
つまり「この世の人」と言うのは、悪魔の世界に住んでいる人たちを指すんです。
そのためある特定の人たちを指して、「この世の人」という言葉を使うときは、
「あなたは悪魔の世界の住人ですよ」
「悪魔にそそのかされている哀れな人ですよ」
という意味になります。
本人は善の側にいるということです。
人間一人ひとり違って初めて平等(カチローの話)
他にも「邪教」「世俗の人」「霊的に基準が低い」など、相手を自分と区別する表現はたくさんあります。
もちろん言っている本人に「それは差別ではないですか?」と言っても認めることはないでしょう。
「差別ではなくて救う対象としての呼び方だ」
「そんなつもりで言ってはない」
ただ差別と言うのは、そのほとんどが無自覚なものだということです。
宗教の中にいるときは差別していると気づきにくかった
(わたし自身の話になって申し訳ありませんが…)そうは言っても、わたしも宗教の中にいた頃は、やはり普通にこのような言葉を使っていたし、それが差別だとは思っても見ませんでした。
その宗教との関係性が強くなればなるほど、一般社会との境界線はどんどん太く高くなっていくのですが、それでも自分たちのほうが一般社会より優位に立っていると信じていました。
自分の宗教への思い入れが強い分、それを受け入れてくれない周囲に対してやきもきしていて、いつしか「こんな素晴らしいことを理解できない一般社会が悪いんだ」と考えてしまったのかもしれません。
世界の平和=みんな自分ところの信者になること?
わたしの中で小さな気持ちの変化が現れたのはあるセミナーで「世界の平和=みんな自分ところの信者になること」という話を聞かされたときでした。どうしても受け入れられなかったのです。
実際はそれから10年はその宗教の中にいたのですが、ずっと心の中に引っかかっていました。なんとか正当化しようとしたのですが、やっぱり無理でした。
「みんな一緒ってつまんねえ」
「うちの宗教の中こそ平和じゃない」
「それなのにみんな同じ宗教だったら平和になるというのはロジックとして成り立たない」
そのように自分の気持ちに正直になったときに、宗教の内側とか外側とか関係なく、人間一人ひとり違うことが、そしてそれを尊重することが大事だということに気づいたんです。
最後に
差別というのは違いを受け入れられないときに起こるものです。そしてそれは宗教の中にも存在します。
もっと言えばそれが膨らめばテロや戦争につながることもあるのです。
- 地下鉄サリン事件
- 9.11テロ
- イスラム国
など、違いを受け入れられないが故に社会的な脅威(きょうい)になった例もあります。
彼らは、
「日本社会を転覆する」
「アメリカを崩壊させる」
など、自分たちの信条こそが、世界に平和をもたらすのだと信じていました。
しかし、それはこの記事で紹介した宗教の内側から外側へ向けた差別です。
そのため、恐らくわたしたちがいくら平和を叫んでも、戦争がなくなることはないでしょう。個人や宗教、集団によって、主張する平和の意味が違ってくるからです。
私たちは、
差別と尊重
の違いを明確にするべきです。
差別は、「相手は私たち(人種、宗教、肌の色)より劣っている。私たちのほうが優れている」という見方。
尊重は、「人間も組織も違うもの。一人一人違って初めて平等だ」という見方です。
時代は平等の意味を考え直す時期に来ているのかもしれませんね?