僕が宗教をやめた理由

【実録】30年間信仰していた新興宗教をやめた男の体験記

プラスとマイナスが共存するバランスの取れた世界

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教の中にいた時は何が「善」で何が「悪」かをよく考えていました。

 

もちろんここでいう善悪のモノサシは自分が所属していた新興宗教の教理だったのですが…。自分の教理の中にあるものは善で、そこから外れるものは悪、その二択の中で育って、まるで全知にでもなったかのように錯覚していたのかもしれません。

 

その善悪のモノサシで測ればわたしは善人でした、たぶん。

 

けど宗教をやめてから気づいたのは、何が善で何が悪かは結構状況や場面、文化や時代背景でも変わってくるということです。

 

宗教をやめてからの自分はあまり頼れる人はいなく絶賛孤独奮闘中で、まるで人生のドン底のようです。もし善悪が状況によって変わる事に気付かなかったら、ちょうど心が弱っている分、宗教になびいていたかも知れません。

 

けど、世界はプラスだけじゃない。マイナスがあって初めてバランスを保てているんだと思うと、今のこの状況も必要な時期なのかな?って思えるようになりました。

 

左に依れば右に戻ろうとするし、右に依れば左に戻ろうとする。成功もあれば失敗もある。楽しい時もあれば悲しい時もある。すべてがうまくいく時もあれば、何もかもがうまくいかずやきもきする事もある。

 

プラスの時もあればマイナスの時もある。

 

そうやってバランスを取ろうとする世界に生きていると思うと、なんか気がラクになります。今日のこの寂しい日が、どうしてでしょう?少し、好きになれます。

 

ジムノペディ第1番が心地よい。

【お礼】3000アクセス達成しました。

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おかげさまでブログを始めてから1ヶ月半でアクセスが3000件になりました。

 

多くの方が新興宗教の内情やその中にいる二世信者について関心を持ってもらえるなら本望です。これからも頑張ります。よろしくお願いします。

 

追伸

 

はてなブックマークとかフェイスブックでシェアしていただけるとウレシいです(チャッカリ)

 

カチロー

宗教が主流派と分派に分かれる理由

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ぼすべてと言っていいほど宗教は分派や幹部の対立という現象が起きます。

仏教も釈迦(シャカ)を開祖として、現代では無数の宗派がありますよね?

キリスト教もイエス・キリスト一人から始まったにも関わらず、カソリックとプロテスタントに分かれ、仏教同様無数の宗派に分かれています。

イスラム教も一神教を掲げているにも関わらず、歴史の中でスンナ派とシーア派に分かれました。イスラム教は今でも多様な実態を持つようになっていて、中にはイスラム国を名乗ってテロ活動を行う組織がでている状態です。

実はこのような宗教の分裂は比較的新しい新興宗教やカルト教団でも起きています。

なぜこのような分派や分裂が起こるのでしょうか?

今回は「宗教が主流派と分派に分かれる理由」について考察してみました。

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“宗教”という条件つきの家族関係

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きどき悲しくなるんです。わたしが宗教をやめる前後のことを思うと…

家族とは非常に仲が良く、周囲の人たちはいつもほめてくれたり、感心したり、「うらやましい」と言ってくれる人もいました。

子どもの頃のことを思い出しても、やっぱり普通の家庭よりは兄弟も仲がよかったように思います。当然、家族としては今でも仲は良いのかもしれません。

 

しかし、宗教をやめた今ではどこまでが家族の関係で、どこまでが宗教の関係だったのかわからなくなってくるんです。

自分自身宗教の中にいた時は何も感じていなかった家族関係が、宗教をやめた途端、

「あれ?ぼくら家族ってこんなだっけ?」

と、思うことが多くなりました。

 

宗教をやめてみてその関係性に冷静な目を向けることになった時

  • 家族としての関係
  • 宗教信者としての関係

この2つの異なった関係が自分の家族にあったことに気づいたんです。

  

neutral-life.hatenablog.com

 

ただ純粋に家族という関係ではなく、そこには常に宗教信者としての関係性がわたしたち家族を監視していたことに気づきました。

そして今わたしに声をかける家族の姿は、この2つの関係性の「葛藤の狭間」にいます。

 

わたしが「宗教をやめる」といったとき、家族には2つの感情が見えました。

1つは「家族として応援してあげたい」という感情です。

信頼と言った方が良いのかもしれません。それは心地よく無条件になんでも受け入れてくれる、文字通り“家族としての関係性”でした。

 

しかし数分後、それまで話していた家族とはまるで別人のような姿を目にすることになります。途中までは「カチローがそう思うならいいよ」と言っていたはずなのに、途中から急にわたしを批判し始めたのです。それは突然でした。想像できますか?

これは現実にわたしに起きた話です。

 

途中までは家族として話していたのに、突然“宗教信者としての関係性”が警告をだしたのです。

「あんたは間違っている」
「〇〇さま(教祖)の気持ちや教典を理解できていない」
「分派にでもなるつもり?」

気づきましたか?これは家族の会話ではありません。信者が信者を説得、または批判するときの会話です。

つまりこの会話をしているときは親と子、兄弟という関係ではなく、宗教信者ともう一度伝道するべき二世信者(わたし)の会話なんです。

 

家族の関係性は信頼が土台でした。しかし宗教としての関係性はどうでしょうか?

「(その宗教の言うところの)間違った方向にいかないように教育しなきゃ」
「教典に沿わないことをしようとしたら注意しなきゃ」
「毎週ある集会やセミナーに参加させなきゃ」

宗教としての関係、ある意味ではお互いを監視し合う関係性です。家族でお互いを監視していたことに気づきました。そして信者として、わたしはいわゆる「裏切り者」です。

 

ある意味では「宗教を肯定している」という条件のもと家族でした。

 

わたしはただ純粋に家族として接していこう、そう思っています。しかしわたしたち家族は今でも「宗教としての関係性」と「家族としての関係性」の狭間で葛藤し続けています。

 

そう思うと、ときどき悲しくなるんです。